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生みの親か育ての親か 映画「最愛の子」

映画


映画『最愛の子』予告編

中国・深センの街なかで、ある日突然姿を消した3歳の息子ポンポン。両親は必死で息子を捜すが、その消息はつかめない。罪の意識と後悔に苛まれながら、かすかな希望を胸に捜し続けて3年後、両親は遠く離れた農村に暮らす息子を見つけ出す。だが、6歳になった彼は実の親を覚えておらず、“最愛の母”との別れを嘆き悲しむのだった。そして、育ての親である誘拐犯の妻もまた、子を奪われた母として、我が子を捜しに深センへと向かう。再びその胸に抱きしめることを願って―。(C)2014 We Pictures Ltd.

親と子

この映画が巧妙なのは、タイトル「最愛の子」の通り、全編親が子を探す物語でありながら前半と後半で風景を180度変えてしまうところにある。

まず前半Aパート。
こちらでは、3歳の息子ポンポンが誘拐され、両親が子供を必死で探す姿が描かれる。
父親は、目撃情報に懸賞金をかけて探そうとするが金目当ての偽情報で呼び出され、強盗に襲われたりもする。
母親は、最後に息子を見かけた日になぜ車を止めて息子を乗せなかったのかと後悔する。
二人は離婚しているが、妻の新しい夫は息子の件に関しては、やはり他人でしかない。

職を失い、それでも息子を探すことを諦めない父親。
そんな彼の元に、息子の目撃情報が寄せられる。

遂に息子を取り戻す二人。
しかし息子は両親のことを完全に忘れ、育てられていた母親を本当の母親だと思いこんでいる。

ここまでがAパート。
ここからがBパート。

Bパートは、ポンポンを育てていたヴィッキー・チャオがメイン。

夫と死別した貧農の未亡人ヴィッキー・チャオ。
ポンポンは、不妊症の妻のため夫が「深センの女に産ませた」と言い連れてきたため、詳しいことは何も知らされていなかった。
親権を求めるが、法的には誘拐でありそれが叶えられるわけもない。

彼女は二人の子供を育てていた。
ポンポンの妹として育てられていた少女を「夫が工事現場で見つけた捨て子だった」と主張するが、娘は養護施設に送られてしまう。

夫は死別、二人いた子供は、それぞれ元の親と養護施設に。
天涯孤独になるヴィッキー・チャオ。
せめて娘だけでも養護施設から取り返そうとヴィッキー・チャオは裁判の準備をするが「誘拐犯」のレッテルを貼られた彼女を手助けしようとする人間はいない。

悪意の不在

Aパートで息子を探す両親の必死な姿を描いた上で、Bパートに突入する。
ポンポンとその義理の妹として育てられた少女。
この子供二人を中心に、2つの家庭が両側に位置している。

ポンポンを誘拐した夫は、既に死んでいる。
それを知らずに育てたヴィッキー・チャオには、元々悪意がない。

子供からすれば虐待されていたわけでもないし、優しい母親と妹と三人で一緒に暮らしていたのに、見知らぬ二人(両親)がやってきて平和な家庭を壊してしまったようにも見える。
離れ離れになった子供らは、元の生活を望み泣いて暮らす。

両親に、悪意や害意は当然ない。
ただ必死になり拐われた自分らの息子を探し、連れ戻しただけ。

ヴィッキー・チャオからすれば、誘拐とは知らず息子を育てていただけ。
せめて捨て子だった娘だけでも自分の元へ戻せないかと願うが、養護施設側からすればビッキー・チャオは誘拐犯と同じ。
戻せるわけもない。


この事件で唯一の意図的な加害者で、悪意の中心になるはずのヴィッキー・チャオの夫が死んでいることによって、この物語は登場キャストが全員、悪意がないままという不思議な様相を呈することになる。
この不可逆で歪な関係性では、全員が幸せになることがない。



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前半は誘拐された息子を取り戻そうとする元夫婦の話。
そして後半は、養護施設に入れられた娘を取り返そうとする話。
どこにも事件の責任や罪を背負うべき人間がいない。

法的には簡単な話でも子供の心や(擬似的であれ)親子の情は法律で簡単に決められるものではない。

フィクション VS ノンフィクション

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監督は、アニタ・ユンの悲恋映画「君さえいれば/金枝玉葉」や、すれ違い系恋愛映画「ラヴソング」のピーター・チャン。
2008年に子供が誘拐されその三年後返ってきた事件のノンフィクションを観てピーター・チャンはこの作品の構想を思いついたのだという。
中国の一人っ子政策の影響によって、女子が産まれた家では世継ぎとしての男子を求め、男児を誘拐するビジネスが産まれたのだそう。
この映画は中国でヒットし、誘拐犯罪の厳罰化に影響したという。


作中、物語が終わり、モデルとなった人物らにインタビューする映像が流れる。
キャストがそんなインタビューを見るシーンが始まる。

こうして映画の最後に、フィクションとノンフィクションが混ざり合う。
たしかに監督ピーター・チャンとしては、問題提起として実際の親や行方不明になった現実を最後に持ってきたいのはわかる。
だが、最後の最後、作中にあった苦悩が一瞬にして現実に食われてしまう。

いくらよくできた映画でもフィクションはフィクションでしかない。
もし現実の事件を描きたいなら、ドキュメンタリーで描けばいい。
ドキュメンタリーを見てこの映画を思いついたのなら、最後までフィクションであるべきで、フィクションとノンフィクションを連ねるのはあまりこの映画に対していい効果を生んでいない。

あの最後がなければ、一本の映像作品として「親と子」という作中のテーマに関しての苦悩や難しさを考えさせる、いい終わり方だと思うが。

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