ウェットになっていくインターネット

ナイロン100℃ 36th SESSION「黒い十人の女〜version100℃〜」

少し雑感。
なので特にオチもない。

最近、特に記事にもしていないROMでだが、ネット上で知り合い、オフで会い、酔って(行為は途中まで)浮気して、浮気した二人が連名で謝罪記事を書かされたり、セフレを募集するとか何とかで知り合った二人がクローズドのやり取りで卑猥な画像を送ったとかなんとかそのやり取りを記事として挙げて、結果としてブログこと抹殺されたり。
あるいは複数の男性と関係があることを記事として書いてみたり、オフパコ関連の話は、定期的に投下されてる。

「現実の拡張としてのネット」というレイヤーが日常に溶け込んでくると、当然ながら言語空間ではなく、肉体が乖離しない生々しい日常や、その背後にいるユーザー同士のウェットな関係性の視覚化が増えていくのは、仕方のないことなのかもしれない。



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トリミング

以前、「黒い十人の女」というドラマの冒頭、「みなさん大好きな不倫の話」という前置きがあった。
たしかにワイドショーなどでも、不倫ネタはもてはやされ、あるいは誰と誰がくっついただの別れただの、どーでもいい話をいい歳した大人が集まって、やいのやいの延々やってるのも見かける。

ただ、あぁいったものは、漏れ出てくる片鱗だからこそお茶の間の娯楽になりえるのであって、当事者同士のやり取りがすべて可視化されていたり、細かなディテールまで告白されたり、どちらにも正義がないような単なるコミュニケーション不全から起きたすれ違いに端を発するやり取りをすべて視覚化されると、どうにもその黒々とした精神性に辟易とする。
愛とか恋とかいえば綺麗だが、要は情念とか執着とか肉欲とか恨みとか。

ウェットな言葉

ワイドショーの不倫ネタというのは、エンタメのコンテンツとして枝葉末節を切り落とし面白おかしく、あるいは怒りをぶつけられるよう放送のためにトリミングされ、下ごしらえされ提供されているのであり、ネット上では、当人同士の直接のやり取りや情感溢れるウェットな叫びを下ごしらえもないままに文字として見せられてしまう。

口に出す言葉はどれだけ強くても消えるが(相手の心には残ることもあるが)、書いた言葉は残る。
そして書かれた場所が、クローズドでないなら指向性を持たない。
四方山、生活の片りんをネットにハイパーテキストとして書き込む、ある種露悪趣味な行為が「日常を切り売り」とも称されるが、こうしてネットという虚構はどんどん一般的な“日常の感覚”にのみこまれ、現実の二次空間と化して行くのだろう。
そしてそういう感覚が一般化して、やがてマジョリティと化す。

ウェットなものは、もてはやされる。
ドライにいいものを「いい」悪いものを「悪い」というよりも、良くも悪くも情を優先させ、ただただほめたたえることがよしとされるウェットな関係性。
あの人は楽しい、あの人は優しい、あの人は仲がいい、だから何を書いても中身がどうでもあの人の書くものがいい。
何を書いたかより誰が書いたか。

政治と同じ。
能力(ドライ)より人脈(ウェット)。

よく「儲けるためのブログ記事テクニック」なんて記事を見かけるが、一番儲かるのはSNSでひたすら関係性を広げていくことなのは間違いがない。
どれだけ記事を頑張って書くか、なんて無駄なこと。

SNSで10人と付き合いのあるユーザーが書いたものと、SNSで1,000人と付き合いのあるユーザーが書いたものではそもそものアドバンテージが異なる。
そこに内容は問われない。
仲良しユーザーならいいね!を毎回山ほどくれる。
取り巻き、人脈こそが至上。

記事は、軽妙で、読み下しがしやすく、情感がにじむ文章が「よい」とされるウェットな判断は、言語空間にとって果たしてどうなのだろう?と思わなくもない。
だがウェットなユーザーは間違いなくマジョリティであって、ウェットな価値観は今後も拡大していくのは間違いなく、かつてマジョリティだったドライでギークなユーザーはマイノリティに己のパラダイムをシフトさせて迎合して生きていくか、もしくはひねもすのたりと象牙の塔に閉じこもるのか。


みなさんオフパコ頑張ってください。

※記事中の「ウェット」という表現は外山滋久子「新聞大学」での表現に順じます

新聞大学

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