語り手は「信頼」できるか否か

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「信頼できない語り手」について少し。
簡単なものですが。

ミステリや文芸の世界において神の視点ではなく主観的な(作中人物の)目を通す作品というのは何かしらのバイアスがかかる。
そもそも「語り手」は、作外の作者が語り手(大)であることもあれば作中の人物が語り手(小)でもある。
ただ読者は、どのような語り手(大小)であっても物語として記述された情報をひとまず信用して、その主観を受け入れ物語を読み解くしかない。



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主観と信頼と

そもそも語り手に対する「信頼」とはなにか?

「信頼のできない語り手」は、主に二パターンに分かれます。

② 何らかの意図により、語り手が意図的に情報を隠したり、虚偽を話したりしている。

②語り手が性格的、能力的、心情的など、何らかの理由で事実を誤認している。(本人は真実を話していると思っている。)
物語における「信頼のできない語り手」の技法と、語り手としてのブロガー考。 - うさるの厨二病日記

ここではまずミステリに限定するが、多重解決ものと呼ばれるジャンルはこの「信頼」を上手く利用している。

たとえばミステリの作品世界において探偵は、謎を解き明かし読者に提示する役割を担う役割を担っている。
探偵が「○○は××だ」といえばそれが物語に隠された真実。
読者は探偵の推理に「信頼」を置く。

ところが多重解決ミステリでは探偵が解き明かした謎を、さらに別の人物が新たな真実を明かしてしまう。ときにはその真実も別の真実で上書きされる。
絶対的なはずの探偵の推理が「信頼」を失い別の推理が「信頼」足り得る情報になる。
(深水黎一郎「ミステリー・アリーナ」、バークリー「毒入りチョコレート事件」井上真偽「その可能性はすでに考えた」など)
【関連過去記事】
”奇蹟”を望む否探偵小説 井上真偽「その可能性はすでに考えた」 - あざなえるなわのごとし

多重解決ミステリの大伽藍 深水黎一郎「ミステリー・アリーナ」 - あざなえるなわのごとし

竹本健治「匣の中の失楽」においては、作中の物語が交互に入れ替わることで主観人物が入れ替わり(メタテキスト)それによってどちらの主観人物を「信頼」するかによって物語世界そのものすら変化してしまう。
ウロボロスの蛇のように絡み合う物語のうち、果たしてどちらを「信頼」するのか。

ミステリにおいて読者の「信頼」とは裏切るためにあると言ってもいい。

主観にウソはない

ミステリ論ではないので、話を「叙述トリック」と呼ばれるものに移す。

まず一つのお約束。
前提として「地の文はウソをついてはならない」

③ 何らかの意図により、語り手が意図的に情報を隠したり、虚偽を話したりしている。

虚偽を話す語り手の場合は、叙述トリックになりえない。


叙述トリックは、主観人物がどの位置か?によって構造が変わる。
たとえばこの文章↓

風が冷たい。
僕は襟を立てて、カバンにしまっておいたマフラーを引っ張り出した。

この主観人物は「僕」だが読者は「僕」の認識を通して物語世界を見ている。
人間が自分の主観に対して嘘をつくことはまずない。
だまし切るとすれば、記憶や認識を改ざんするしかない。
なので主観を通し世界を見る場合、そこにウソはない。
この場合、語り手に対しての「信頼」は、「語り手の語る内容は語り手の主観において信頼できる」という前提が必要になる。つまり一人称で語り手の目を通す物語の場合、主観の誤認識や情報の欠落によってトリックを仕掛けることが多い。

風が冷たい。
新一は襟を立て、カバンにしまっておいたマフラーを引っ張り出した。

この場合、主観人物は作外の神の視点(作者)もしくは作中の別人物。
作中の人物が(主観ではないところで)嘘をついてもいいが、作者が読者に対して嘘をついてはいけない。
この場合、作者は神の視点であり、物語世界に対しての誤認識はあり得ない(メタ的な物語では否定しないが)。
なので、意図的に情報を欠落させるなど行いトリックを仕掛けることが多い。

ブログの信頼できない語り手

さて元記事ではブログにおいても「信頼できない語り手」を当てはめている。

が、まず前提として前述したような本来的な「信頼できない語り手」というのは基本的に「主観で描かれるフィクション物語において語り手の主観は絶対である」ということがある。
ところがブログというのは基本的にフィクションではなく、作中世界を描くものではない。
読者は「作者」の視点を通じて記事を見るしかなく、前述したように「信頼できるか否かはその時点では判明しない」
もう一度アザラシ氏のツイーとを引用すると、


つまりどこまでも嘘をつき続ける語り手はその時点では信頼できるということになる。またウソを認識していなければその嘘はどこまで続く。
またその語り手が、延々とウソをつき続けるとは限らない。
小説と違い記事は、一つ単位で終りまた始まる。ひとつ記事でだけ嘘があればそれは信頼できるか。
またいくつまでなら信頼できるのか。

そして嘘が誤認だった場合、その信頼は果たしてどうなるのか。
誤認ではなく語り手の意図だったとすれば、それをどのように判断するのか。
意識か無意識か、認識していたかしていなかったかをどのように切り分け、どう信頼するのか。

「自分の認識している世界」と「他人が認識している世界」のズレがあるうえに、そのズレが記録として残っています。ブログ自体は好きな内容を書いていいと思いますが、その認識のまま他人と絡むともめる確率が飛躍的に高くなります。
それが「信頼のできない語り手パターン②」の目印だと思っています。

作外の世界における自分の主観を基本として、語り手の認識との齟齬をもってその認識の正誤を判断し、その語り手の認識の「信頼」を確保する、と。
しかしその読み手の認識が正しいか否かは、誰が担保するんだろう?

「自分の認識している世界」が正しいかどうか定かではないのに「他人が認識している世界」のズレを見たとき、果たしてどちらを信頼するのか。
もしくは両方違うかもしれない。
ネット上のマジョリティなんて信頼には足りない。
自身の認識が絶対なんて言いきれない。

たとえば原発の問題にしろ放射能に過敏な読者が「放射能はもう大丈夫」なんて記事を読めば、その内容がどうであれ「この書き手は信用できない」ということになってしまう。
政治や宗教に関してもそう。
思想に関してもそう。

絶対的な正しさを確保できない時、果たして何を担保にするのか。

フィクション世界でそれが成立するのは、その世界の絶対的な存在が作者だからであり、作者の主観が物語世界においての絶対的尺度になるため読者は相対化しやすい。

ところがブログの場合、読者も書き手も同じ世界に存在し同じ世界をのぞいて書いている(ノンフィクションの場合)。
語り手と語られる対象は同じ世界に存在し、そこに肉体が存在しうる経験則や経験論、主観。そしてフィクションの主観人物と違いそこにはメタな視点(書いているものをどう読まれるか、どう認識されるのか)が必ず存在する。

このようなブログ場合、安易にフィクションにおける「信頼できない書き手」の方法論を当てはめるといろいろと齟齬が起きるように思うのだが、これこそ誤認だろうか?
誰もコメントで指摘していないので、そうなのかもしれない。
残念ながら自分の認識が正しいと言えるのは自分でしかなく、それも絶対的に正しいとは言い切れない。
それでも誰かしら何人かには、一定度の信頼をしていただけると思いこれを書いているにすぎない。

結局のところ「信頼」と呼んでいるものは、単に書き手と読み手の齟齬の差異という相対的なものでしかない。
もちろんそれが社会的通念に照らし一程度の担保を得るということもあり得るが、そうでなければそれは読者が独善的に決めてしまう「信頼」でしかない。

さて、果たしてここに書いたことは「信頼」できるか?

読者の方々は、毎日気温の変化が激しいのでお体に気を付けて。
以上、簡単なものですがお納めください。
かしこ。

新装版 匣の中の失楽 (講談社文庫)

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