メディアとプラットフォームの間に産まれるデマブログ

先日の三連休は、台風襲来ということもあり、初日だけ出かけあとは部屋でJupyter Notebookをチマチマいじったり、ネトフリのモキュメンタリー「ハノーバー高校落書き事件」を観たり、のんべんだらり過ごしていました。
以下は、連休明けに見た記事の雑感。



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無責任なブログ

synodos.jp
この話を「新聞で読んだ」より問題はリーチの長いテレビにおいての報道が少ないことで、「ハゲー!」議員の中継に割く時間があるのにこの話題に大して時間を割かない。
テレビは、情報エンターテイメントを流す単なる娯楽メディアなのがよくわかる。
宮根誠司にメディア人としての矜持なんて感じない。

エビデンスのある話ですら「御用学者」と揶揄することで安易に信憑性を曖昧にしたりするのは、慎重というよりもはや愚蒙。
だったら何をどうすれば、その情報の正しさを担保できるのか?


ところで先日、牛乳が体にいいだか悪いだか書いて燃えてるブログがあり適当にながめていたが、そのブログの後の記事で炎上を振り返り
「ブログで書くことに対して責任なんて感じてない」
と書いてあった。
炎上は一過性のバズなので次の記事は多くに読まれていないらしいが。

こういう「自分の書くことに対して何の責任も感じない」姿勢は、いわゆるWelq問題やフェイクニュースに通じる。
牛乳を飲むと乳がんになるだとか、リンのせいでカルシウムが流れ出るだとか、もう何年も何年も前から言われている安易なデマを信じて書いてそれを指摘されても、そのことに対して「読んで信じるか信じないかはあなた次第」とのたまう。
これが瑣末な娯楽に関してなら情報の正確性もある程度許容されるが、身体に関わることでやれば問題があるのは当然。

要は前述した放射脳からみれば自分に都合の悪い遍く科学的エビデンスが「御用学者」「陰謀」になるかのごとく、信じたい奴だけが信じればいいという宗教のような話がネットの情報の信憑性を下げ、デマを氾濫させる。
「信じたい人が信じればいい」などという妄言を使う人は、災害時のデマに対しても同じことを言うんだろう。
責任感の欠落したデマを信じてひどい目にあってもそれは自業自得である、と。

EM菌に関してのデマをバラまく輩もいるが、では自分のブログに書かれているEM菌のデマを信じて誰かが死んだとしてそのときに「ブログに書かれていることに責任なんてない」と言えるのか。
ファンタジーを書きたいなら記事に「創作」とでも書けばどうかね。

本人が感じていようがいなかろうが、ブログに書かれていることは、本人に降りかかる。
EM菌であれ、牛乳に関してのデマであれ、それを撒き続けるのであれば、デマの片棒を担いでいるのと同じこと。
書いた本人が責任を感じようが感じなかろうが、書いた時点で筆責は存在する。

メディアとプラットフォームの間

blog.gururimichi.com
「メディアとプラットフォームの間」というワードはとても示唆的で、いわゆる個人メディアとしてのブログやミニブログとしてのツイッターなどSNSがメディア顔をすることで権威化し、信憑性をまとうからこそデマが紛れ込む。
さらに信憑性のあるメディア顔のバズメディアが検索流入前提でデマを撒く。
この両輪によってデマの轍は刻み込まれ、そこに検索流入が流れ込む。

nlab.itmedia.co.jp
牛乳やEM菌や江戸しぐさのデマは、検索すればエビデンスのあるものが出てくるのでそちらを参照してください。

何の文責も感じない無責任な個人ブログをいくら責めても暖簾に腕押し。
netgeekがいかにクソでも、そんなデマをバラまく輩はゴロゴロしてる。
デマを注意されても何とも思わない、訂正すらするつもりもない無責任なブログはどうしようもないフェイクニュースと同じ。個人としてできるのは、信じない、支持しないことくらいのもの。

そんなのは、いずれ忘れられ消える。
似たような光景は山ほど見てきたが、問題は、そんなデマでもウソでも一度書かれたものは拡散されゴミが残り続けること……検索結果にスクリーニングが必要なんですが、それを読み手個人に求められ、結局、それぞれのリテラシーという話にならざるを得ない残念さ。

次回は、ネトフリのオリジナルドラマ、モキュメンタリー版"藪の中"「ハノーバー高校落書き事件」記事の予定です。