あなたの言葉が人に届かない理由「言葉が人を選び、惹きつけ、引き離す」を読んで

・あなたの言葉が人に届かない理由「言葉が人を選び、惹きつけ、引き離す」/ホームページを作る人のネタ帳
http://e0166.blog89.fc2.com/blog-entry-1089.html

読んだ。
面白いっすね。その通りだし。

冒頭部の比喩

「掃除したくても出来ない、微妙なものはたくさんある。例えばビックリマンチョコのように、シールがほしくて大量に購入したあと、そこにのこるチョコの山を眺めるかのような感覚だ。」

テレホーダイ時代の習慣で、接続のたびに作業が終われば直ぐ接続を切るといった癖のように、昔からの癖はなかなかぬけない」

「まさにその人は、LINEのグループからそっと追い出されるような、そんな存在だ。」

「最近の羽根のない扇風機では、あ"あ"あ"あ"が出来ない」

さて、ここで考えてみましょう。
皆さんはこの中で「あーわかるわかる」といった感情を残すものがありましたか?

もしあったなら、それは普通の言葉よりも、共感でき、より強く記憶に残るものです。

逆に、何を言ってるかサッパリわからないという人にとってみると、全くといっていいほど記憶に残りません。

まずこれって世代間のハイコンテクストと言うか引用先では「既視感」と言ってるかな。
つまり関西弁でよくある
「角曲がってギュー!行ってそこをグッ!と曲がってそんで坂道をガーッ!行ったらあるがな」
とか
「これチンしといて」
みたいななーなーで解るでしょって言う「あれ」。
“あの”関西の関西商人的な
「そんなもん具体的に言うたかてしゃーなおまへんやんか、伝わったらよろしいねん」
という漠然とした感覚的で「わかってるでしょ?」っていう共通認識が前提のコミュニケーション。
それは不特定多数相手に記事を書く書き手としては本来宜しくない。

コンテクストは時代によって変わっていくし先日の
セーブのアイコンがフロッピーの形ってどうなの?
に代表されるように、それぞれの時代の当然のようにみんなが知っているであろう知識は必ずしも別の時代においてイコールではない。
ウェブを徘徊するのは色々な時代の色々な環境で育った色々な人々なのだし。


書き手としての理想は誰が読んでも判るように、だからこそ誰にでも伝わる言葉を書かないといけない。
でも実際的には難しいだろう。
この前NHKのスマートフォン講座みたいな番組を観てみたら
iPhoneの場合、本体下部にある丸いボタンを押してください」
という表現を使ってた。
勿論、そこいらじゅうのiPhone系のブログなら「ホームボタン」とか表現してるだろう。
ハードキーでも伝わるか。

アプリのアイコン長押しして編集モードにしてからドラッグ、他のアイコンの上でドロップしてください。するとアプリの入ったフォルダが出来上がります。

画面の中の絵の描かれた小さい四角を指で押さえてそのまま離さないでいてください。すると画面の中の四角全部が小さく震え出しますよね?震えはじめても押さえたまま指を離さずに他の四角の上に指を移動させましょう。すると指先に四角が付いてきますね?他の四角の上に指先の四角が重なったところで指を離してください。すると小さな2つの四角がそれより大きな四角の中に入りましたね。

もしハイコンテクスト抜きで「iPhoneでのフォルダの作り方」を説明すればこんな感じになるか。
これは極端としてもハイコンテクストを排除すると言うのは難しい。


ブログで何がしたいか。
結局それによるんだろう。
「ブログで書きたい事をオレは書きたいんだ」
だったら書きたいように書けばいいし、ハイコンテクストもご自由に。
でも「オレはみんなに伝えたいんだ」だったら伝わる言葉で書かなきゃならないだろう。
「このアニメの面白さを説明したいんだがまず比喩として宇宙船サジタリウスとポピーザパフォーマー、あとはサムライチャンプルーの後期を例に挙げて...」
その例が判らないからなんの事だかさっぱりわからない。
書いてる人間は自分で判ってるからいいだろうが、読み手としては書き手の自己満足にしか見えない。
いっぱい比喩を出してオレって理解してるでしょ?
知識いっぱいあるっしょ、すごくね?
ハイコンテクストとか難しい言葉で表現してるオレってイケてるよな?

っていう勘違い。
本来、比喩は誰かに解りやすくするために使うはずなのに。
漠然とした概念や事象を具体的に置き換えて伝える手段が比喩の筈なのに。
こーいう比喩は、比喩が本筋と主張の補強をしてない。

人に物を伝えようと思ったら自分から色々な人と共感出来る情報をつかむために、色んな人の情報を目にするのが手っ取り早いと言うことです。

そこには、多くの発見があり、そしてどんなにジャンルや趣味、趣向が違っていても、どこかに共通する部分があることに気が付きます。

その共通する部分の発見こそが、全く別のクラスタの人達を、自分の得意とするクラスタへ誘う架け橋となる言葉にもなり、全く違う考えの人にも共感をお届けすることが出来るようになるのです。


ただ人って言うのは便利な生き物で、わからない部分や見ても些末なディテールはすっ飛ばして理解した気になりやすい傾向がある。
ウチでもそういうアンサーを何度も受けた事があるが、そーいう人はリンクが張ってあっても見ないし、比喩を出しても理解が出来ない。でも自分なりに理解をして相違があると主張をぶつけてくる。
お、おぅ...としか言いようがない。
本来HTMLとかハイパーテキストは、
「○○の××って曲は」
と言ったように言葉で表現していたものをリンクや動画を貼る事で動的に具体的に読み手に示したりできるし、
「この事について詳細はリンク先を」
と言う風に自分の主張の簡略化が出来る筈なのに、なぜかリンクを見るのは面倒だから、と単体で理解されてしまう。

でもこれって今どきにツイッターのツイートを前後の文脈無視して
「これは良い言葉だ!RTだ!」
ってするような文化とかTumblrで一部分だけ抜粋するのが常套手段で、今や文脈と言葉は切り離されつつある。
何が言いたいかと言えば、アイドルの曲を聴いて
「うわー、これって共感できる曲だわ」
って言う感想は実は歌詞の一行だけだったりしても、そこの部分に何かの思い入れと共感を持てばその人にとってはそれは感動できる曲になりえる。壁に点が三つあれば人の顔に見えるように出来ているのが人間なんだから。


なんかフワッとしたオチになったけど、ブロガーの皆さんはギュー!っと頑張ってブワーッとしたハイコンテクストな言葉や表現をガーッ!と抜きにして記事を書きましょうね。