リア充とネットと孤独と

コミュニケーションもチキンレース

この前、携帯電話見ながら駅のホームを歩いていた小学5年生児童が、線路に転落。
一応、隙間で無事から落ちたとかって話があって。
テレビでは今のスマホ流行もあって
「スマホのながら歩き検証」
なんてのをやってて
「携帯に比べてスマホの視界はとても狭く云々」
などスマホのながら歩きの危険性がどうこうやってた。
かなり以前からがらけーのながら歩きは危険って言われてたけど、最近はスマホ。
いつか電脳メガネが出てきたら
「メガネの写す情報レイヤーに気を取られ転落する事故が多発しており」
とか言い出すんだろう。


Facebookでのリア充自慢ってのはネットと現実の境界が薄くなってるのを指してるんだろう。よくネットにアバターを作ってそのアバターを豪奢に飾り立てたりするが、あれとそんなに変わらない。
ネット上の誰かに見せる自分を飾って「いいね!」って言ってもらう。
実存の自分と違って、ネットの、Facebookでの自分は見せるべきデータを抑制出来るし見せたい部分だけを見せられる。
物理的・社会的に伴ってない、見せたくない部分は見せなくていい。


喫茶店で黙々とスマホいじるカップル。お互いの顔くらい見ればいいのに。
昔は
「友だちと部屋にこもってゲーム画面しか見てないなんてなんて不健康な」
って言われたもんだけど、今やその代わりにどこでも持って出られる端末がある。
スマホをお互いにいじってるカップルと、お互いに顔を見つめ合ってイチャイチャしてるカップルなら前者の方がオレは推せるけどね 笑
後者のカップルなら今すぐ爆発しろ、ってスキャナーズ状態ですよ、奥さん。


でも今となっては幸いなことだけど、当時は外でネットができる状況ではなかったので、外に出れば完全にオフラインモードに移行できてたなあ(心の中はネットのことを考えていたとしても)。ホンの10年くらい前の話ですか。


今ではテクノロジーの発達で、外でもネットが出来るし、最大の変化はネットジャンキーなのはリア充の方ってことかな。今はスタバでiphoneipadオッシャレー!だけど(もはやこれも古いのか?)、10年前にラップトップパソコンを喫茶店に持ち込んでたらパチパチやってたらお客様ちょっとよろしいですか?だよね。

で、今度はウェアラブルの波が近づいてるわけですよね。
ネットと常時接続して常に何かの情報を得る。
実際、昔はオフラインの時間があって、いわば睡眠に相当すると思うんですよ。
オンラインで得た情報をオフラインでぼーーーっと考えて何かしら結びつけたり、一旦リセットしたり。
流入し続ける情報って結局整理できないまま流れ去ってしまう。
その整理する時間が大事で、だから昨日の
Twitterをやめたら生活がすっきりするか?
に書いたけどオン・オフラインはバランスが重要で、0か100じゃ無い。
自分で抑制も出来ない、そんなに不器用なら0で良いと思いますけどね。

それとともに、ネット上ではますますリア充を演出することが加速していくんだろうなあ。誰とでも繋がることが、誰にでもイケてる俺/私を演出すると言う方向に。結局ネットもリアルと変わらない状態になっていく。そしてまた疲れた人々が、別のリセットした場所でコミュニケーションの場所を生み出していくんだろうな。それの繰り返し。

リア充と非リアのインターネット二分の計
コミュ障で現実と折り合いが上手くつけられない。
だからこそインターネットへと走った。
そこには自分の意志と言葉だけで作り上げられるコミュニケーションが存在して、そこに実存の社会的評価や地位や経済的な状況は関係ない。必要なのはウェブ上のツールをどのように操り、どのように立ち回れるか。
情報を手に入れ、知った風を装い、他人を罵り、侮蔑する事で自身の優位を確保し、論陣を張り、危うくなれば逃走すればいい。
非リアの為のモラトリアムがそこにあって、壺中の天で傷つけたり傷つけられたりしたがそこにあった。
ウェブへのリア充の侵攻の歴史はやっぱりmixiになるんだろう。
当時、情強と誹謗中傷の坩堝だった2chやExciteコミュニティでの出会い系の悪イメージに対してアラモ砦よろしく閉鎖環境下での「招待制・会員制」というかりそめの「選ばれた人たちのコテハンSNS」安心感をイメージとして用意したmixiはあしあとのシステムなどもあって、誹謗中傷に強く閉鎖コミュニティとしてよく出来ていたし、ネットをよく知らない「リア充」な人々の訓練所としてうまく機能してた*1
そして「電車男」なんかでネット住人がテレビでカリカチュアライズして描かれ、ノマネコ事件があったり、司直が2chに介入したりして、インターネットはリア充の皆さん方でも気軽に入れるところなんですよ、と随分ハードルが下げられた。

非リアはTwitterへ走り、、
リア充にはFacebookと言う受け皿が現れた。
実名と匿名。
勿論、これは雑な総語り(「え?オレってTwitter実名でやってるけど?」みたいなイレギュラーの話をしているのではない)。


昔、ここで書いたと思うけど、21世紀は宇宙船もタイムマシーンも出来なかったけど、人とのコミュニケーション手段だけは誰も予想しないくらいに進化した。これはきっと人と言うものが、遠くに行きたい、誰も見ていないところを見てみたいと言う欲望より、誰かと繋がりたいと言う欲望の方が大きかったからコミュニケーションのテクノロジーがここまで進化したと思うんだよね。そんなに人間って孤独を内包した生き物なんだろうか。
セルフィッシュジーンで考えれば個体が個として生存しても利点は少ない。
生殖できないし次世代を残せない。
生存確率も群れが大きい方が高いし、人間は本能的に群れを欲するだろう。
ヒトの中で遺伝子が「繋がること」単体に関して哲学的・学術的見解は無いだろうけれど、心理的に誰かと「繋がる」事で虚構の充実感を得られる状態は、孤独をある程度補完できるし、認められる・容認されると言うのも心理として保管作用はあるんだろう。
孤独を内包している、と言う言葉が何を指しているのか今ひとつ漠然としてるけれども、孤独だから繋がりたいのではなく繋がれるから繋がるのであって、繋がることによって満たされる心理があるから繋がる。
人は死ぬまで孤独だろう。
自分と言う肉体の檻の中で、五感と言う感覚器を通じて外界の情報を得て、自身で処理を行う。しかし精神は肉体から離れる事は叶わずに誰かと直接繋がる事は出来ない。だからかりそめのネットワークで代替えとして誰かと繋がった「気分」を得る。
孤独を内包しているのか否か?
そりゃあ人間が孤独でないとするならそれは完全に勘違いだろう。
社会的に「友人」「家族」「妻」「子供」がいたとしても100%解りあえる事は決して無いし、自身の事を全て知り、自身を理解できるのは自身でしかない。その周囲の無理解を孤独と呼ぶなら人間は絶対的にすべてが孤独だろう。

*1:だから招待制を止めてあしあとを撤廃した時に死んだんですよ