民度とクラスタ

twitterでTLの民度を下げたら見える世界が変わった
http://d.hatena.ne.jp/numenunu/touch/20130704/1372941147

面白い。
この記事に意外と
『当たり前』
民度じゃなくてクラスタの違い』
って批判コメがあって驚く。
へぇ。
いや、当たり前だけど、だから記事になんだろ?ってさ。
当たり前を記事にしたらダメって事があるのか?と。
なら読むなよ、と。
たまに見かける「クラスタ」って言えば解った風なコメントは、一定量見かけるが、民度クラスタの差異が何か定義した上で批判してんかな?

この記事ってさ「民度を下げたら」と謳ってるけど記事の中を読めばわかるが
「こーいうのが民度低いっていうんだよ?わかってっか?オラオラ??」
って言うネタ記事であって、特定クラスタじゃない。
クラスタって言うのは一定嗜好をもつ個人個人の方向性を一まとめにするジャンリングであって
『こーいうツイをするからこーいうクラスタなのだ』
は、ニアイコールであってイコールでは無い。
同じクラスタであろうと民度、程度、知性の上下はあるし、必ずしも記事にあるような程度の低いツイート例みたいなものを一定クラスタがツイするとは限らない。
なのでクラスタ批判はかなり見当がズレてる。

かつてはヲタクと呼ばれた趣味嗜好はディープなものが主であって、しかし最近はそういうヲタク趣味と言われるものにライト層が溢れた。
そこで「クラスタ」って言う便利な言葉が産まれた。
自称「クラスタ」であればそれっぽい趣味嗜好を表現出来るし、マニアやヲタクといった語彙に含まれる程の深さも歴史も持たなくていい。クラスタはあくまでクラスタ


「だからなんなんだ」
というコメントがあったが、これこそがTwitterが総論語り出来ない部分であり、今のパーソナライズされたネットの姿でもある。
例えば誰かが「ツイッターとは」と語ってもそれはそのアカウントが見ているTLの風景に過ぎなくて、誰かのTLと誰かのTLは同じではない。当たり前だが、誰しも自分のTLを前提に話をするし、だから「Twitterとは」というかたりに齟齬は必ず存在してる。
Facebookにしろ、Twitterにしろ、ぐぐたすにしろ、はてなにしろ。
何かのSNSにアカウントを持って、そのTLやホッテントリや内輪揉めや殴り合いを見ていても、そのTLには何も知らない大多数の人がいる。自分のTLに存在するアカウントは違うTLを見ているし、そのTLに存在する人は別のTLの風景を見ている。
確かに当たり前だ。
だがそれは繋がっているようで実際は繋がっていないし、何かを共有して入るけれども何かを共有してはいない。
パーソナライズと言うのはそう言うもので今やネットはパーソナライズされた情報で出来上がってる。

昔はテレビであれば「テレビ」が中心にあり、だから「昨日のテレビ見た?」で話が通じたし、誰とも話が出来た。しかし今は違う。
自分のTLで盛り上がっている事はAとBには話せるがCは知らなくてCが話して来た事はBは知っていたが自分は知らなかった、なんて当たり前の話。当たり前なんだよ、当たり前。
パーソナライズはネットだけじゃなくて現実でも起こってる。
見たいものを見てみたくないものを見ないパーソナライズは、現実世界にも影響を与えてる。


今日は、頭痛いんでこんなもんで。
ところで先ほど「稀にライトノベルを読むよ...」さんにTwitterでフォローされたんだが、つまりオレって民度低そうな垢って思われて...いや、えぇ、なんでもないです、泣いてなんかいませんよ、放っといて下さい....。