善悪の彼岸 〜善が判らないんだそうで〜

善がわからない - 反社会的な中学生

真面目に書く方がいいのか、これ。
まぁ「こう思う」じゃなくて延々「判らない」を書いて素直に答えが返って来てもろくでもない。
自分で考える方が身になる。
それに書いたって喜ばれるわけでもないし「うるせ」って思うでしょうに。
それでも書いてしまうブロガーの業の深さ。
参考にするもしないもどっちでも。
正解なんて知らないし。


人間が、生きてる上で必ず行うことは何かと言えば
「生きるために何かしらを殺す」
ということ。
動物であれ植物であれ、生きているものを殺してその屍体を食うことで生きてる。

でも殺すことを是とすると、集団生活を行う上で殺されることも是になる。
だって人間も動物やんけ。理由があったら殺していいだろ?
いやいや。
殺されると人間はそこで終わってしまう。
遺伝子的には次世代を残すことが至上だし、遺伝子の言うことに逆らえないので死なないルールがいる。
殺されたくないから孤独を選ぶ、と種の保存が出来ない。
そこで殺すことはよくないことだという概念が敷かれる。

でも食うときに殺すダブスタ
だから殺生と業って考えが出来る。
殺すことはよくない。
だから殺して食うとマイナスポイントがつく。
それが業。
生きれば自然とマイナスが重なる。
業がいっぱいだと死んだあとにひどいことになる。

んで、善悪の彼岸。
社会を構成する上でルールが必要になる。
人間てのは一人一人がエゴイストで自分勝手。
小さなはてな村ですら自分勝手に人を見下してブコメで笑いにするやつはゴロゴロしてる。
大した人間でもないのに。
そういうどーしょうもない人間のコミュニティの中でルールの基礎になるのが善と悪。この善と悪の二元論で明確なものは振り分けられる。

人殺しは悪。
盗みは悪。
詐欺は悪。
他の人に優しくするのは善。

だってその方がコミュニティがうまく行く。
で、いい事をすると業のマイナスポイントが少し解消されるかもよ?
そういう風に利用される。
本当にそうかどうかなんざ知らん。


しかし二元論は応用が効かない。
自分が行った善行で誰かが死んだとする、それは善か悪か、なんて判定には使えない。
だってそんなふうに「善悪」はできてない。
善悪はあくまでも基準であって万能の道具じゃない。

さっきどこぞで偽善が嫌いだって話が出てたが、偽善ってのは自分が善行と思わないのに善行と思われるような行為を自嘲して使うべきで他人への批判に使っても相手の中の善意は測れないんだから当然当てはまらない場合もある。
考える時に主観と客観は切り離しましょうね。


自分が良いと思うことが誰かには悪かもしれない。
でも自分が善行だと信じるならそれでいい。
ありがた迷惑なら嫌がられるだけ。


どうせ人間最後は業にまみれて死ぬんだし。
仏がいるかいないか知らないけどもし居ないって証明は出来ない以上、いた時の対応はしとけばいいんじゃね?
「お前の善意は計算づくだな!偽善だ!」
と仏さんに言われたら仕方ない。
針の山でもペンチで舌でも抜かれても別にいいわ。

あとは考えるか本でも読めー。
瀬戸内寂聴とかならきっと、もっとばっさり言われるぜ。

業まみれでメシ食って風呂入って寝る。
そんなバカな!遺伝子と神について (文春文庫)