猿が書いたブログだからって差別しないで読んで欲しい
※注
このブログは猿が書いてる。
だから猿が書いていることを想像しながら読んで欲しい。
きっとクオリティが上がるんだろう。
・受け手側の無意識的性差別について考えてみる - 生活とバウムクーヘン
ブログの性差に関しては昨日書いたが、誤読されている部分もあるので以下で補填する。
なんか違う。
・男と女とブログと看板とリテラシー - あざなえるなわのごとし
北村薫が覆面作家で男性か女性かを隠していた、と言う話を挙げたのは
「性差によって書かれたものは毀損されない」
ということ。
男性であれ女性であれ書かれるブログのクオリティが高いのなら評価されるし、読むに値しないなら評価されない。
それだけの話でしかない。
自分は猿でそれなりの歳で書くモノもそれなりだろうが、それを
「おっさん猿が書くからって差別しないで」
とは思わない。
自分の書くモノが面白ければ評価されるし、つまらなければスルーされるだけ。
ブログは性差の世界ではなく思想と思考と言葉のセカイ。
言葉でセカイを作り、読ませる。
そこに「女性だから」「男性だから」は無い。
性を出せば、そこに性差は必ずある。
ネット(ブログ)はマッチョな実力の世界。
猿の割には日本語が上手い、とは思われるだろうが。
性を利用して自身の容姿を貼り付けてソーシャルを有利に活動するような女性もいるだろうが、それを出していないのであれば、アクセスした読み手は「書いている人は女のひとだねー」という感想しか無く、それにどんな「女性のアドバンテージ」があるのかはよく判らない。
女性のブログだから読んでみよう、と言う気持ちはよく判らないが、もし女性であれ面白くなければアクセスがあってもいずれ忘れられるだけの話。
「はてな女子でトップページに出るのは嫌だ!」
それ以前にはてなのブログは、優先的にはてなのトップに出てる。
そのアドバンテージはどうなんだろう?
はてなの方がはてブが付きやすい。
それも他のブログと比べればアドバンテージ。
ツイッターでのフォロワーが多ければアクセスも多い。
有名人のブログなら中身関係無しに読まれる。
世の中に平等とか均等なんざ無い。
男とか女とか以上に山ほどある。
それを全部無視して「男女」だけに絞ってるのは筋が悪い。
アドバンテージが嫌なら、現在ある他のアドバンテージを否定しないのはなぜだろうか。
女性のブログを女性として読むな、と言うのであれば看板を下げるのは止めなきゃ仕方ない。
アクセスした読者にそれを強要できない。
女性のブログとしてピックアップするな、と言うのであればはてなブログを止めるしかない。
それをいいと思っている女性もいる。
実社会での差別意識とネットの上でを同列に考えるのは何か筋が悪い。
表現とはそんなに狭苦しいものでもバイアスがかかるものでもない。
ネットの上での情報は書きこんだもの、開示したものだけ。
もし自分が望まないならそれをコントロールするしかない。
男女の別なくパーソナリティを見て欲しいと思い、パーソナリティを見るようにしているけど、それでも「男が/女がこういうこと言うなんて」と思ってしまったことはある。“男が「セックスしたい」と書いたら”と言うがその「男」は男と主張しているから男なのであって“女が「セックスしたい」って書いたら”も「女」は女と主張しているから女なのであって、主張しておいて「性差を考えるな!」はおかしい。
たとえば、男が「セックスしたい」と書いたら「正直でよろしい」だとか「ソープに行け」といった反応になるんだろうけど、女が「セックスしたい」って書いたら「はしたない」とか「ヤらせろよ」という反応になるんだろう
ネットの上での性差は「自分が○○である」と書いて発生する。
もし男女を書かず、匂わせずに「セックスしたい」と書けばどんな反応が返るだろう?
しかし文章を書きつづればそこに何かしらは出る。
ネカマがいるようにある程度のコントロールはできるが、主張や思考を書き出すのであればそこに性差は露出する。
「女性の書き手が女性らしく女性的な思想を書くが性差なく見て欲しい」
もうそれは読み手への望みとしておかしい。
「ウチのラーメンを女性が作ってるからって特別視しないで」
そもそもそのラーメンが美味いのか不味いのか?
美味いラーメンを出しているなら女性店主だろうがなんだろうが「このラーメン美味いっすねー」と思うし、逆に不味ければ「は?女性云々以前にまずうまいラーメンの作り方考えたら?」と思ってしまう。
作り手が女性か男性か、はラーメンありきの話。
違うのかな。
「女性が書いたのだからこれを面白いと捉えよう」
そんなに読み手は器用なのか。
「女性が作ったのだからこれを美味しいと捉えよう」
「女性がやっているのだからこれはクオリティが高いと捉えよう」
「男性が書いたのだからこれは面白くないと捉えよう」
日常世界の性差と、創作物に対する性差は違う。
脳の構造が違うのだから作り出されるものが違うのは当たり前の話。
性差なく捉えろ、と言うののであれば自分が
「意図したように捉えさせるには?」
と言う考察が順当。
「読んでるお前らは女性扱いするな」
はよく判らない。
「自分が性差を越えてどういう風に面白いものを読ませるか?」
「性差を感じさせないように書くにはどうすればいいか?」
そうじゃないのかな。
それが
「読み手が女性と捉えてバイアスをかけるのは差別だ!」
というのは書き手の勝手な意見。
男女の評価軸以前にクオリティの評価軸があってこそ成り立つ。
読み手が女性が書いているものを「女性が書いていると思う」のは差別ではない。
それを差別と思うなら誰にも読ませなきゃいい。
読み手は選べない。
区別と差別は違う。
ブログは誰かに強要されて書いてる訳じゃない。
自主的に書いてる。
なのにに読まれたことで読んでいる人間に対して
「お前らの読み方は書いているのが女性だからって歪んでる」
だったら書かなければいい。
もっと気楽なスタンスが楽だと思う。
男性か女性か。
それ以前に読まれるだけのクオリティのものが書けているのかどうか。
今、クオリティがあるのかないのかは知らないけど。
それは読者が判断するんでしょう。
オレにはよく判らん(ウチも他人の事を言ってる場合じゃない)。
補填を終わります(fadeout...)