「神さまの殺し方」を読んだけど、神さまはとっくに死んでた

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神さまの殺しかた/宗教にハマらずに生きる方法(魚拓)
タイトルは格好良いけどね。
後半はいらない。
※魚拓にしてみた

読んでて色々違和感があった。
いつもの事だが。
デマのヒトはデマを書いて騙そうとしてる(と思ってる)。

あなたは、幽霊は存在すると思うだろうか?

もしも答えがイエスなら、あなたは無宗教とは言えない。乱暴な言い方だが、非合理的な存在を理由もなく信じるのは「宗教的」だからだ。

もしも答えがノーなら、あなたは暗闇が怖いだろうか?

幽霊を信じていないにもかかわらず、あなたが暗闇を怖がるとしたら、それはなぜだろう。理由を説明できないとしたら、あなたは無宗教とは言いがたい。非合理的な感情の変化に理由もなく振り回されるのは「宗教的」だからだ。そして、あなたが平均的で一般的なヒトならば、まず間違いなく暗闇は怖いはずなのだ。

んー、まず「暗闇を怖がる=宗教的」だが、いや違うだろ 笑
本能的に暗闇に不安感を覚える。
どうしてかと言えば機能的に人間は闇を見通すように出来てない。
神だの仏だの信じてないレベルの子どもですら暗闇は怖い。
怖い、ってのは理屈じゃない。
本能だ。
理屈が付けられない=宗教だ?。
いやいや、強引。
そんなもんでは騙せねぇ。
私が暗闇を恐れるのは、幽霊がいるからではない。「幽霊のようなものがいるかもしれない」と考えるように、ヒトの脳が進化してきたからだ。ヒトの眼球は暗がりに弱く、夜行性の肉食獣は多い。理由もなく暗がりを怖がる脳は、ヒトの生存に有利に働く。だから今でも、私たちは理由もなく闇を恐れる。
それが根源的なセルフィッシュジーン的考え方なのは判る。
でもだからって
「オレはセルフィッシュジーン的思考だけど他は違うから怖がるのは宗教的だ」
はおかしい。
これは無宗教な子どもにも見られる話。

そもそも幽霊が宗教的か?


信仰と宗教と

私たちが「無宗教」になるのは難しい。

組織宗教はともかく、「宗教的なもの」は身の回りにありふれている。それらをすべて批評的な目で見ることができて初めて、あなたは本当に無宗教だと言える。

お守りを大切にするのは宗教的だ。

パワースポットに出かけるのは宗教的だ。

初詣にいくのも、食事の前に「いただきます」というのも、みんな宗教的な行為だ。

会社で出世したい? 彼女ができて有頂天になる? 億劫な仕事に四苦八苦させられたから、あのクライアントとは金輪際、取引をしたくない? ──出世、有頂天、億劫、四苦八苦、金輪際。これらの言葉はすべて仏教用語がもとになっている。

私たちは宗教的なものに取り囲まれて生きている。

そらそうだ。
しかし「意味がわからず使ってもそれが宗教的なのか?」
つまり何かしら宗教に結びついてりゃそれは宗教的、と言うのはおかしな話で、そもそも「宗教的」って何なんだろうか。
言葉には宗教用語が語源のモノが確かにあるだろう。

しかし例えば「対面(トイメン)」と言葉を使ったとして「お前は麻雀的だ!」とでも言うのか?
「あいつ高飛車だよなー」「お前は将棋的だ!」
「あいつには一目置いてるんだ」「お前は囲碁的だ!」
「あちゃー、チェックメイトだわ」「お前はチェス的だ!」
「Think different」「お前はジョブズ的だ!」

もう、よく判らない。


平賀源内を八十八回噛む

例えば土用の丑の日にウナギを食べる。
平賀源内が「夏場にウナギが売れないんでなんか売る方法ないっすかねー?」と問われて考えたと言われてる(諸説紛々あるらしいが代表的なモノを)。
でもこの「土用の丑の日にウナギを食った」事が別に平賀源内を意識して食ってるわけでもない。
意識してるのは「土用の丑の日」と言うパッケージだ。
それが古来からの宗教的で神聖な言われだろうが、平賀源内のアイデアだろうが、食ってる人間はルーツを考えて食ってるわけじゃなくて「土用の丑の日」というパッケージで食ってる。
クリスマスもバレンタインデーも宗教的行事だ。
それが社会として行われている中で
「恋人にクリスマスプレゼントをあげよう」「お前は宗教的だ!」
とか言われてもそれは違う。
信仰心が存在しない宗教的行為は一体何か?ということだよ。


お米を八十八回噛みなさいと言われても、言ってる親も言われてる子供もそこにお百姓さんの姿や感謝をこめて噛んでるわけじゃない。
「米と言う漢字は八十八と書いて、お百姓さんが八十八回の手間をかけて作るからこういう漢字になったんだよ。だからご飯を食べる時は作ってくれたお百姓さんに感謝をこめて八十八回噛むんだよ」
なんて説明できる親はレア。

そう教える事で顎の力が増すし、満腹中枢が刺激される。
唾液の分泌も促されるからでんぷん質と混ざり合って内臓の負担も軽くなる。
合理的な理由と言葉の意味性が合致してる。

躾に利用されている言葉の言い回しであってそこに意味性は希薄だろう。
そもそも「噛むこと=感謝」はイコールになりえない。
そんな本来の意味から切り離され便利に利用される言葉や概念は多い。

クリスマスのサンタクロースはキリスト教的ではあるが別に信仰がある訳ではない。

クリスマスは、フランシスコ・ザビエルとともに伝来してから450年の歴史があり、明治後期・日露戦争第一次世界大戦の間にはキリスト教徒の行事という枠を超えて、既に日本文化となっていたようです。明治時代にクリスマスの商業宣伝が始まり、初期のプレゼントの定番は「歯磨粉」だったようです。日露戦争後、急速に人々の間でクリスマスが広がっていきました。それは、西洋化をすることで「国際社会の一員」を意識するために必要なことだったようです。この頃、サンタクロースをヒントに「子供福袋」が登場してきます。(大晦日の晩に枕元に福袋を置いていました。24日で無いところがポイントです。)しかし、この習慣は、次第に修正され、子供たちはクリスマスを「サンタが子供におもちゃをくれる日」いうように理解するようになりました

クリスマス|日本文化いろは事典

誰かの意図と思惑があり広まり定着する。
本来、宗教的であったことが当たり前になり意味性は希薄になる。

パワースポットの神社に行くのは信仰的な気持ちが存在するが、大自然の中に神秘的なものを感じるのは宗教的ではなく、そもそも山岳信仰密教、仏教の区別もつかないような方々がやれ
「パワースポットだー」
「滝行だー」
「禅寺体験だー」

と行くのはカジュアルなファッションであって、それは行為自体の意味性を考えれば宗教的なのかも知れないがそれを行う彼らは信仰的ではない。


社会に溢れて(組み込まれて)いる宗教的な事柄からは逃れられない。
自称「無宗教」は「無信仰」なのだ。


これでいい事なんじゃないの?


神さま殺人事件

ユリイカ2009年3月号 特集=諸星大二郎
神さまを殺すにはどうすればいいか?
それ以前に、とっくに神は死んでる。

神への信仰が残した様々な形骸化した遺物は社会に組み込まれたまま残り、その遺物に疑問を持たないまま現代人は生きてる。
日本人は宗教的であっても信仰的ではないから、都合の良い時だけ神さま仏様を持ち出すしキリスト教だろうとお祭りなら盛り上がる。
そもそも「幽霊がいると思うのは宗教的だ」とデマのヒトは言ってるが、宗教的に考えれば輪廻は転生(大乗仏教)するんだから地上に残ってるのがまずおかしい。
死んだら天国か地獄だ。
元々「幽霊」とか魂魄が残ると言う考え方は日本の土着の思考。
それが仏教に組み込まれた時に本来の「成仏=悟りを開くこと」が「成仏=人の魂が極楽浄土へと旅立つ」と歪んだ結果が今の成仏。
幽霊の存在は宗教から切り離されてどちらかと言えば民間伝承とか民俗学のフォーマットで考える方が収まりがいい気がする。


土着の八百万の神々とか道祖神信仰があったところへ外から仏教や密教が乱入し神仏が一体化した結果のキメラな宗教が日本を席巻した。
真言密教館川流だの一向宗だののブームもあった。
あほだら経だのスタスタ坊主だの昔からそういう宗教スタイルを利用して金を稼ぐやつもいた。


ファッション・スタイル・マンセー

なんでもかんでも「宗教的だ!」と言うのはいいけど、ルーツをどこにするんだ?
そもそもの発祥が、途中の経過で歪むケースは山のようにある。

今や正月は初詣(仏教、神道)、バレンタインデー(古代ローマ)にはチョコレート、合格祈願(仏教、神道)で神社に行き、七五三(天和元年11月15日(1681年12月24日)に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まったとされる説が有力である)を祝う。
先祖の墓参り(仏教)に行き、パワースポット(仏教、神道、山岳信仰)でリフレッシュして、誕生日にはケーキを食い(海外民間行事)、ハロウィン(西ヨーロッパの古代教)に仮装して、土用の丑の日(平賀源内)にウナギを食い、クリスマス(キリスト教)にはプレゼントを贈る。
どこから発祥しても何かの宗教が組み込み、変化し、今に繋がってる。
そこに「これは宗教的だ」「これは信仰がある」「これは誰々が考えた」なんて区別は無い。
組み込まれたパッケージとスタイル、ファッションが今の社会を形成してる。


どれが神でどれが仏でどれが民間伝承だか。
こんなカオスな国で宗教的だとか...。

まず米を八十八回噛め。
お前らは、お百姓さんへの感謝が足りない。
へ?今の米はそんな回数手間をかけてないって?
数なんざどーでもいいんだよ、それがテンプレなんだから。
昔からそう決まってんだよ。
「手間の回数に比例して噛む回数が減っていい」
なんてルールは設定されて無い。


無宗教であるところと無信仰であるところが渾然一体となって
「私はセルフィッシュジーンを元に考えるから無宗教なのだ(どやっ)」
ドヤ顔されても。
さようですか...。
まず信仰と宗教と、社会論と民俗学的な思考と、意味性が希薄になりテンプレート化された行為とか切り離すのが筋がいいと思うんだけどなぁ。


ま、ブクマもいっぱいついて、評判もいいし、いいんじゃないですか。
学があって賢いのは判ってるから、そんなドヤ顔しなくていいと思うけどねぇ。
いつもの事。
遠野物語remix