・自分の意見が持てるようになる「クリティカルシンキング」のためのエクササイズ : ライフハッカー[日本版]
「ツッコミ力」と言うと格好が悪いが「クリティカルシンキング」と言うと意識が高いひとにウケそうだ。
そんなブコメを付けたが記事自体は悪くない。
そこで実践的にクリティカルシンキングをやってみるとどうなるか。
以下に仮想敵を作って「クリティカルシンキング」記事に書かれていることをつかってボコボコにしてみたいと思う。
仮想的なのでめちゃくちゃに書いても問題ない。
仮想敵
仮にこんな記事があったとする。ネットでは嫌いな物を批判することを格好いい、頭がいいと考える風潮があるらしいが、個人的にはそんなヤツのことをカッコいいと思ったことはない。…ん?
なにかの有名人でも無いただの凡人が格好をつけて専門家気取りで語ってるなんて格好が悪い。
ぶっちゃけ、そういうヤツは誰かに持ち上げられちやほやされれば満足するんだろう。
構って欲しくてしかたがない。
ひとのことをバカにする事で自分を賢いというアピールをしてるだけ。
で、そういうやつは何にも気づかず自分は賢いんだ、と勘違いできるならそいつは幸せなのかも知れない。まあ少しもうらやましくはないんですけど。
どこかで見たことがあるような気がするとすれば気のせいだろう。
こんな記事ネットに山ほど転がってるし検索すればゴロゴロ出てくる。
どんなアホでもこのレベルの浅薄な記事なら簡単に書ける。
「注目すべき細部」を見極められるよう訓練する
まずクリティカルシンキング記事にはこのようにある・その主張で誰が得をするのか考える
・情報源を確かめる
・「分かりきった事実の羅列」にこそ注意する
・常に疑問を持つ
・「発言を和らげるフレーズ」に注意する
・自分自身の心理的バイアスを知り、対峙する
以上の項目を仮想敵に当てはめてみる。
・その主張で誰が得をするのか考える
この記事を見れば煽っているような口調が見受けられ、読んだ人間がウケるイメージを同意/炎上(釣り)で考えれば後者を意識しているのがわかると思う。
そして読者がこれを読み不快に思い批判→批判の当事者→批判格好悪い、という構造があり真っ直ぐな批判を避けられる。
煽ることで釣りを行い拡散する。
誰が得をするか?と考えれば同調であれ批判であれ書いている本人だろう。
・情報源を確かめる
「○○が言っている」「××も書いている」という第三者的な補完がない。
「風潮」というが具体例もないし、その批判にどういった誤りがあるかもわからない。
どこかにありそうな仮想敵とそれに対する個人の主観しか記事にはない。
・「分かりきった事実の羅列」にこそ注意する
ネットでは嫌いな物を批判することを格好いい、頭がいいと考える風潮があるらしいがこの風潮の出所はどこだろうか。
まるで「誰でも知っていると思うが」のように語っている。
読者はこれを当たり前と思っても、しかしどこにその具体的な事例があるのか。
・常に疑問を持つ
そもそも「嫌いなものを批判する」という言葉に違和感を感じる。
嫌い→批判
果たしてこれが成立するのか。
「批判」とは何か調べてみると
ひ‐はん 【批判】「批判」とは論理的に誤りや欠点を指摘し、正すことを「批判」と呼ぶのであって「嫌いだから」と言う主観が入っている時点でそれは「批判」ではない。
[名](スル)
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
→批評[用法]
嫌い(感情)だから批判(論理)する、は成立しない。
嫌い(感情)だから非難(感情)する、は成立するかもしれない。
論理によらない批判と感情による非難(皮肉、あてこすり)を同一視していることに違和感を感じる。
・「発言を和らげるフレーズ」に注意する
上記記事でのフレーズは「ぶっちゃけ」だろうか。
ぶっちゃけ、そういうヤツは誰かに持ち上げられちやほやされれば満足するんだろう。批判する→ちやほやされて満足する、これが絶対に事実だなんてどうして言えるのか。
非難したところで周りからウザがられたり、怖いと思われたりして、悪いことはしていないのにめんどくさいと思われたり。
「批判することがちやほやされる」と誰が言いきれるんだろうか。
・自分自身の心理的バイアスを知り、対峙する
クリティカルシンキングの元記事にこうある。
「気をつけなさい。人は、すでに知っていることを語られるのが好きなのです。そのことを覚えておくように。この文が、とても示唆的で素晴らしい。
新しいことを聞かせれば、相手は気分を害するのです。新しいこと...そう、新しいことなど、人は期待していないのです。
彼らが聞きたいのは、例えば『犬が人を噛む』という話です。犬とはそういうものですから。『人が犬を噛む』なんてことは、誰も聞きたくありません。なぜなら、そんなことは起こらないはずだからです。簡単に言いましょう。彼らは『自分が聞きたいのは新しいこと(news)だ』と思っていますが、本当に望んでいるのは旧知のこと(olds)なのです...新しいことではなく古いこと。自分がすでに知っているつもりのことが正しい、と保証してくれるものが欲しいのです」
当たり前のことを当たり前に書く方が同調と納得を誘う。
そういうヤツは誰かに持ち上げられちやほやされれば満足するんだろう。上記記事で言えばこの引用部はすべて主観に基づく。
構って欲しくてしかたがない。
ひとのことをバカにする事で自分を賢いというアピールをしてるだけ。
で、そういうやつは何にも気づかず自分は賢いんだ、と勘違いできるならそいつは幸せなのかも知れない。
当たり前だが「理屈っぽく非難するやつは賢いアピールをしていて寂しいヤツ」という心証が元になっている。
これには「どんなことを批判しているのか」「どんな風に批判しているのか」「批判される理由は何だったか」が何一つない。
批判される側が何も悪いことをしていないにも拘らず一方的に批判するやつ。
それは記事主が勝手な仮想敵を作り上げて、勝手に主観だけで批判してるこの記事そのものなのだと感じる。
「批判するやつは嫌い」と言う主観だけで書かれていて、漠然とした当たり前の感情論だからこそ読んだ人間の同調を得ることが出来る。
古典的で類型イメージで仮想敵を作りだしその仮想敵を批判することで自身の感情論を正当化してみせるチープなレトリック*1。
でもこんなアホみたいな記事ですら容易に同調する人間を作ることはできる。
誰かの間違いを非難するなんて間違ってる。
何事も前向きに捉えることが幸せなのだ。
いわゆる「ポジティブシンキング思考(至高)」が背景ある。
ポジティブシンキング
明るく前向きに、悪いことは考えずにポジティブに。ダメなところよりもいいところを見よう。
「プラス思考ができないから、不幸になるんだ」
「悪いことが起きたのはネガティブな考えをしたからだ」
「ポジティブにしているから素晴らしい出会いが出来たんだ」
こーいう発想の気持ち悪さは本末転倒な部分を意識していない部分にある。
プラス思考ができない→不幸になる
これは不幸になることの原因をプラス思考に求めているが、ではプラス思考をすればそれは幸せになるのかと言えばそんなことは無く同じ状況でも
普通の状況→プラス思考→幸せ
普通の状況→マイナス思考→不幸
同じ状況の受け取り方を変えてれば幸せに「感じる」ということでしかない。
幸不幸は主観でしかないのに、考え方を変えて幸せに感じることは正しいのだ、と説く。
実際の状況がどれだけ不幸でも幸せと感じるならそれは幸せなんだろう。
これは至って当たり前のこと。
ところが世の中には「プラス思考で人生が好転する」という空疎なおまじないを大声で叫ぶ方々がいる。
多くは、宗教団体や自己啓発系の方々に多い。
プラス思考は悪いことを見ない、もしくは良い方に捉える。
何事もポジティブに考える。くよくよしない。
が基本だが、これは宗教団体や自己啓発系の方々からすれば
教団の教えがおかしい→間違ってなんて無い。正しいのだ
お金がかかりすぎる→お金なんて持ってる方が不浄だ。お金を手放すことで幸せになれる
などなど団体のおかしな部分や合理的でない論理的におかしな部分がポジティブシンキングによって打ち消され正当化される効果がある。
だからこそ怪しい団体はこぞってポジティブシンキングを使いこなす。
前向きなイメージで、自分を変えよう。
そうすればよくなる。
それは単に見る場所を間違えているだけ。
自分が不幸だというなら周囲をポジティブに見て誤魔化すよりも、冷静に自分を見るほうがいい。
感情を廃し事実を捉える。
話題が逸れたので元に戻して、もう一度仮想敵を
ネットでは嫌いな物を批判することを格好いい、頭がいいと考える風潮があるらしいが、個人的にはそんなヤツのことをカッコいいと思ったことはない。これまでの記事を読んだ上でこの記事を読めばツッコミどころが満載なのに気付く。
なにかの有名人でも無いただの凡人が格好をつけて専門家気取りで語ってるなんて格好が悪い。
ぶっちゃけ、そういうヤツは誰かに持ち上げられちやほやされれば満足するんだろう。
構って欲しくてしかたがない。
ひとのことをバカにする事で自分を賢いというアピールをしてるだけ。
で、そういうやつは何にも気づかず自分は賢いんだ、と勘違いできるならそいつは幸せなのかも知れない。まあ少しもうらやましくはないんですけど。
「ネットでは嫌いな物を批判することを格好いい、頭がいいと考える風潮があるらしいが、個人的にはそんなヤツのことをカッコいいと思ったことはない」
風潮、とは何を持って風潮なのか。
これが是なら「オレはあの嫌いなやつを批判してやったぜ、オレってかっこいいだろ?」と誰かが吹聴していることになる。もし吹聴していないならそれは誰かの批判を読んで勝手に「こいつ自分がカッコいいとでも思ってんな」と想像しただけだろう。
「なにかの有名人でも無いただの凡人が格好をつけて専門家気取りで語ってるなんて格好が悪い」
凡人が何かしらを批判するのはダメだ、という理屈はつまり「プロでなければ批判する資格はない」と言うことになる。
つまり料理を食っても客が不味いというのはおかしいし、音楽を聴いてひどい曲でも素人はそれがダメだと言ってはいけない。
格好がいい悪いという問題ではないし、そんな主観はどうでもよい。
ぶっちゃけ、そういうヤツは誰かに持ち上げられちやほやされれば満足するんだろう。構って欲しくてしかたがない。
勝手な憶測、類推。
ひとのことをバカにする事で自分を賢いというアピールをしてるだけ。
批判する→バカにする、はイコールではない。
ここにも感情論的な「バカにする」と言う主観語が入る。
自分を賢いというアピールをしてるだけ、にも憶測がある。
この記事を書いているオレ→そんなアピールは通用しないし判ってる、というポジショニングが見て取れるし、そのポジショニングが感情論に繋がるのだろう。
まとめ
クリティカルシンキングを実践してみるとこんな感じだろうか。批判、と言うものが正当性に裏打ちされているならそれは必ずしも間違っているわけではないし、なにかが間違っていると考えその批判をいうことが間違っているなら世界は今ごろ滅びていただろう。
批判し批判されることで論理が構築され、感情論的な偏見を排して物事を判断できる。
リテラシーもそうだが、小手先の文章トリックや事実によらない主観になびいてしまう人は慎重に注意をして、クリティカルシンキングをした方がいいだろう。
記事は必ず書き写し、その一行一行から感情と主観を取り除き論理と事実だけにすればその主張のおかしな部分が見えるんじゃないだろうか、などとクリティカルシンキング(ツッコミ)マンセーな管理人がお送りしました。
*1:イケ●ヤの得意技でもある