脳を刺激し興奮の極致へ誘う、バラエティに富んだリドルストーリー「異版 女か虎か」「謎の連続殺人鬼《【謎々/リドル】》」「群れ」「見知らぬカード」「私か【分 身/ドツペルゲンガー】か」の異色の五篇。鬼才の放つ謎に挑め!物語には「終わり」が存在する。
落語で言えばサゲだ。
サゲがない根田もあるが、サゲが大事な根田もある。
「このへんで濃いお茶が一番怖い」はまんじゅうこわい。
「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」は粗忽長屋。
サゲは「ここで非日常の終わりです」という切れ目。
落語を聞きに行って日頃の面倒なことを忘れて笑いに行く。
そしてその世界を堪能して最後に「蕎麦が着物を着て座っていた(蕎麦清)」と聞いて日常へ帰る。
物語の終わり。現実の始まり。
しかし物語の終わりがなければどうだろうか。
山口雅也の「謎(リドル)の謎(ミステリ)その他の謎(リドル)」にはサゲ…つまりオチのない話が並んでいる。
フランク・ストックトン「女か虎か」という話がある。
ある国の王女が身分の卑しい若者と恋に落ちた。
ところが二人の関係が王にばれ若者は処刑されることになる。
処刑方法は、闘技場にある二つの扉のうちどちらかを選んで開ける。
一方の扉には、飢えた獰猛な虎。
もう一方には、美しい娘がいる。
王女はどちらに虎がいるのか知った。
だが王女は迷う。
愛する若者が虎に引き裂かれる姿か、
それとも自分以外の娘と若者が一緒になる姿か。
若者にどちらを教えたらよいか…。
処刑の日。
闘技場に出された若者が観客席にいる王女と目が会う。
王女は密かに若者に手で合図をした.
合図をしたのはどちらの扉か?
女か?虎か?
この話にはいわゆる「オチ」がない。どちらを開けその後どうなったか、は読者に委ねられている。
山口雅也は実験的な作品を数多く著している。
ゲームブック形式で書かれた「13人目の探偵士」や人が生き返る世界での殺人事件を描いた「生ける屍の死」
短編「不在のお茶会」では疑似的な存在である小説の登場人物からメタ的に読者を認識させようと試みた。
この「謎(リドル)の謎(ミステリ)その他の謎(リドル)」で行われたのは閉じることのない物語世界への試みだったんだろう。
終わりが存在しない物語は悪く言えば丸投げだが、逆に言えばいつまでも結論がないまま世界は終わることがない。
活字によって読者の中に展開された物語世界は閉じることなくいつまでもそこにある。
これから何かがどうなって収束する、その収束部がない。
不安定に、これからも閉じられることのない、開かれたままの物語世界が続く。
これは、そういう試みの一冊なんだろう。