Godzilla 1954 Trailer (2014 Style) - YouTube
がれきと化した町、燃え盛る建物、大量のけが人と死人。
1954年「ゴジラ」は核の力によって産まれ、その存在は「核兵器」「戦争」「災害」などの暗喩として描かれた。
いつの間にかミニラが登場してゴジラは悪の怪獣と戦い観客が感情移入するためのキャラクターと化したが(ガメラはキャラとして解りやすいものの)平成になってゴジラはもう一度凶悪さを取り戻して描かれたりしたものの(1984年版)、娯楽作としての枠をはみ出すことなく(なんだよスーパーXって...orz)ゴジラ2000でも同様の試みが行われたが、もはや暗喩とするべき巨大な力を忘却している当時の日本にとってみれば描かれる力はやはり虚構の「スクリーンの向こうの娯楽」以上の何物にもなりえなかった。
阪神淡路の震災をイメージさせる描き方は避けざるをえないから、どうしてもヌルい娯楽作にオチる。
前の戦争から半世紀。俺もあんたも生まれてこの方、戦争なんてものは経験せずに生きてきた。
平和。
俺達が守るべき平和。
だがこの国のこの街の平和とは一体何だ?
かつての総力戦とその敗北、米軍の占領政策、ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血塗れの経済的繁栄。それが俺達の平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。正当な代価を余所の国の戦争で支払い、その事から目を逸らし続ける不正義の平和。
(中略)
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか。
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると。パトレイバー2 THE MOVIE
新井英樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」に怪獣ヒグマドンが登場する。
主人公トシとモンらは、爆弾を作りテロを仕掛ける。
人を刺し銃を撃ち殺し逃亡する。
逃亡先の老夫婦を布団にくるみその上から包丁でめった刺しにする。
逃亡する車の窓から道行く人を撃ち殺す。
金銭ではない、快楽でもない。
「人の命を蹂躙するだけの力を手にしたから使った」
という原理に従って行動する。
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食うためではない、娯楽でもない。
ただヒグマドンの前にいる。
その理由だけで子供を叩きつぶし、老人をねじ切り、女性を引き裂く。
町を破壊し命を蹂躙する。
抗いようのない巨大な力。
死、災厄、力。
どれほど理不尽であろうが納得できなかろうが、巨大な存在には抗えず、万人に等しく死は訪れる。
自分が一瞬後に死ぬ、とは誰も思っていない。
しかし準備も予告もなく、誰もが死ぬ。
新作のハリウッド版ゴジラ。
今度は津波に原発、と先だっての震災をイメージさせる道具立てが多く出てくるらしい。
日本でやれば「不謹慎だ」と不謹慎論者が騒ぎ立てるだろうが、上映されてからどうなるか。
長らく平和が続いた日本に、先だっての震災は繊細なバランスで成り立つ「日常」の不安定さを露呈させた。
まだ震災の記憶が薄まっていない日本で「災厄のメタファー」ゴジラは、どんな風に受け止められるのか。