「いいね!」を固定された使いづらさ
・「ネットに強い」ひとほどフェイスブックが使いづらいの法則というのをでっち上げてみた - in between days
でっちあげたそうなのでツッコんでもアレですが、Facebook使いづらい理由ってなんか違うよねーというか。
「ネットに強い」ってのが何を指すのか漠然としてるわけですが、とりま「リテラシーが高い」とか「ヲチが趣味」とかにしときましょうか。
ROM専でさまざまなもめ事を見てバックリンク辿っていろいろと火元からややこしい人の繋がりを再確認したり、錆びついたデマに引っ掛かってるズレてる人とかを眺めてはニヤニヤして、メタブコメしてネットでは常にマウントポジション。投稿する時は位置情報は必ず削って、個人情報は入らないように、写真も写りこみや見切れも見逃さない、と。
仮にそういう人がいる、と。
その人はFacebookは使いづらい。
そらそうだ。
「リテラシーが高い→個人情報をばらまく趣味はない」
まずこれがありきなんだろうと思う。
ウチなんかそうですけれど。
FacebookとTwitterとTumblrとブログとぐぐたすとか。
いろいろとあるわけだけれどもそれぞれをリンクもさせてない。
だってどれかをリンクさせた時点で「こいつのはこれだ」が確定する。
Twitterで好き放題釣りまくったり悪口言いまくって、でもそういう人はFacebookと繋がない。
池田○夫氏じゃないんだから。
ネットの上の拡張現実
Facebookってね、ネット上の「自分」なんですよ。
「オレってこういう人間っす」を誰かに知らせる広告塔。
「みんなで仲良く繋がろうよ」
現実世界での自分をベースにそこから関係性を構築する強化現実。
でもTwitterとか他のSNSは、必ずしも「オレってこういう人間っす」は必要ない。
だから匿名で言い放題言えるし、それがバレて恥ずかしいことになる人もいるわけで。
確かにフロー型としての情報速度はFacebookがTwitter>Facebookだろうけれど、そうじゃなくってその情報にくっつくのが「オレ」なのか「アバター(垢)」なのかって全然違う。
「オレ」はどこまでいっても「オレ」なんですよ。
現実の自分を遥かに超えることはない。
でも現実には片手で数えるほどの友だちもいないオレでも「アバター(垢)」には数千数万のフォロワーがいて、オレがニートだろうがフリーターだろうが社長だろうが逃走中の殺人犯だろうが、関係なしに発信・拡散した情報を受取り反応する。
情報を流すとき、その情報に「オレ」がくっつくのか、「アバター(垢)」がくっつくのか。
……という部分って多分、記事主の人は「いや、それはわかってるからwww」と言いそうな気もする。
当たり前のことだし。
IT編集、ライターさんですから。
なのであえて、の前置きなんですわ、上記のこれらは。
○○っぽいという理解
ただ記事では、なぜだか「ネットに強い」というリテラシーの高さからインターフェースとかグロースハックあたりに敷衍してるんだけど、それは筋が悪いというか、それって「ネットの強さ」と関係なくね?
インターフェースというかGUI周辺に持っていくならリテラシーじゃ無くね?という、ね。
でも、個人的な感覚として、そんな使いにくいインターフェースではない
慣れなのかなともおもったけど、いつまでも慣れないってひともよく見かける
ということは、慣れとかリテラシーとかじゃない何かがある
むしろ、既存のネットに慣れてたりリテラシーがあったりすると、それが邪魔をするようなないかがある
使いづらさって意味ではぐぐたすの概念のほうがよほど分かりづらかったりする。
というか多分、TwitterならTwitterの情報の概念に染まった状態でTumblrでリブログをやると「あぁ、これはRTみたいなもんか」とおもう。
これって自分の中にある素材に当てはめて理解してるわけですよね。
「○○っぽい」「○○みたい」という表現とか感覚。
これって言ってみればその自分の中に概念がなければないほど使いづらい、というかハードルが高い、ということでもある。
先日、深夜番組を観てたら「くりぃむしちゅ~の二人が恋するフォーチュンクッキーの振り付けを覚える」という企画でAKBの大家が出てきた。
その時に大家が
「あたし、これ五分で覚えました」
って言ってたんですけど、これが大言壮語でないとしたらつまり大家の中に既に踊りの基本形がいくつも入ってるんだろう。
足の運びとか腕の振りとか。でそれを繋ぎ合せて「ここの部分はあの曲のあれとあれで、次は~」と覚えれば確かに五分で覚えられる。
ところがくりぃむ(と博多大吉)は踊りの基礎がない状態で恋するフォーチュンクッキーの振り付けを覚えようとするから小一時間で概要しか覚えられない。
Facebookにもし違和感を感じるとすればその独特の概念にある筈。
良くなくても「いいね!」
Facebookといえば「いいね!」か。
あれが成立するのはもちろん実名の「自分を映す鏡としてのSNS」が何かをほめ、いいね!というポジティブなネットワーク前提。
でもその「いいね!」の概念ってネットにどっぷりハマってればハマってるほど偽善に……上っ面をとり繕っているようにも思える。
日々ネットをやってて「いいね!」なんて情報は少ない。
「へぇー」「ふーん」「あ、そう」「おもんない」「死ね!」とは思うけれど。
でも、それらを共有する時もすべて「いいね!」なわけで、でも情報共有にあえてFacebookを使わなくてもブクマで「ふーむ」とかTwitterで「一応共有 RT」「死ね!!!RT」とか、そのほうが自分の情報との拡散・表明や向き合い方にウソがない。
「いいね!」はだから偽善も多いし、そういう他に選択肢がない「いいね!」という共有法はリテラシーが高く、ネットの情報にこだわりを感じればやっぱり自然と違和感を感じる部分もあるんだと思うけれども。
情報の共有って情報単体で拡散するわけじゃなく(公式RTならまだしも)「いいね!」なり「RT」すればその情報に拡散者としての自分がくっつく。そのことをリテラシーが高ければメタに認識してるはず。
情報に自分の名前がテクスチャみたく張り付いて共有される。
情報って情報だけで流れるわけではない(RSSならまだしも)。
フェイスブックがやってるのは、ひたすら大量に流れこんでくるフィードをいかに効率よくさばいていくかというかんじ
自分が動いていくのか、自分のところに流れ込んでくるのか
まるっきり正反対に違う考え方で、このサイトはつくられてる
だから、既存のインターネットにすごい慣れてて、そのリテラシーのままで使おうとするとすごい使いにくさある
このあたりの話ってGoogleリーダーが終了するころにライフハッカー連中周辺で多く言われた話題で、「効率化マンセー」ライフハッカーらにとっての情報というのは何かしらのフィルターを経由して精度や価値の高まった情報だけを見ればいい(はてなならホッテントリだけで充分、あとは村長でもフォローしときゃいい)、というものでだからRSSリーダーみたいにダラダラすべての情報を見なきゃ気が済まない(はてなでは新着を全部遡って見るのが当たり前)という情報に対する考え方は非効率的であり旧態然としてる、って言われた。
まとめ
「情報」に対する向き合い方(姿勢、思想)をリテラシー(高低ではない)と呼んでその「(旧態然とした)リテラシーの人にはFacebookは使いづらい」というのならまだわかるけど、それでもやっぱり違うかなー。
リテラシーが高ければ高いほど、Facebookだけじゃなくさまざまな情報の経路があってそれぞれに向き不向きとか適性があって、だから応じて使い分けてる、ってことじゃないのかね、と思うんだけれども。
Facebookぐらいなんすよ。
情報共有に一定の指向性が、あらかじめセットされてるのは。
特定の志向・嗜好の情報を向いてない(自分の周囲との結びつき方、演じ方、イメージ)SNSに流すときにはそりゃあ使いづらい。
情報ってFacebookだけに流れてるものではないのでUX、UI論に落とすのは悪手ではないのかな、と愚考する次第。
Facebookなんてとっくにやめましたが。