あー、そうそう。
さっき急にEd Piskor「ヒップホップ家系図(Hip Hop Family Tree 1)」予約してたの思い出してさ。
いやー、やっぱ今のミュージックシーン語るならヒップホップって欠かせなくね?
特にさベーシックとしてアメリカのヒップホップカルチャーとさジャズ、それと今のアイドルカルチャーが含有してるリスペクトとかアティチュードとかさ、そーいう視点がないと語っちゃだめだよな。
「たかがアイドル」もう今はそういう時代じゃないし。
あー、まぁね、今ロックよりシーンとしてそっちが面白いってことに危機感感じてないからさー彼ら。
感じてるけど解ってないっていうかさ。一応語っています、なげいています、みたいなさ。
音楽評論家っていってるけど、じゃあどんだけ価値のあることを語れんだ、ってさ。
んかさ、ナタリーが独り勝ちみたいな感じじゃん?今って。
あとQJ?
やっぱアイドルに先行してシフトしてる語り部が生き残るよね。
いつまでもさ、旧態然としたアイデンティティにこだわってたら老害になっちゃうってば。
ジャンルレスでオルタナティブなカルチャーをさ、ダダイズムって言うかやっぱ方法論をさ、アゲインストしなきゃだめなわけじゃん、今ってさ。
ん?これ?
アニエスとアダム・エ・ロぺとコラボのボーダーシャツなんだけどさ、アダム・エ・ロぺはちょっとアレだけど、やっぱアニエスって名前で買っちゃうじゃん。だってボーダーだしさ、タグもアーカイヴから起こしたデザインのが付いてるし、そーいう細かいとこがさ、マニア心くすぐるって言うかさ。
解る人だけ解る、って言うの?
あえてミスチル。あえてディズニー、みたいな。いや、意外とミスチルとかディズニーも好きなんだけどね。ミスチルのライブにも足を運んだことはあるし、ディズニーランドは何度訪れても夢の国だし。なんてことを書きつつ、ここでベタ的要素を持つミスチルやディズニーが好きであることに対して、「意外と」なんて書いてしまうところが、自覚的にサブカルというか、自意識過剰というか、もう「うわあ」としか言い様がないというかね。
けど、そういう感じってサブカル的要素を持つコンテンツに興味を持ってしまったり、好きになってしまった人の宿命的なもののような気がする。いや、呪縛と言っても良いのではないだろーか。本人的にはベタ的要素を持つものを消費する際に「あえて」なんて枕詞を付けなくても良いくらい好きではあるし、実際のところはベタにベタをいっているとは思うんだけど、そこは「あえて」という言葉を付けてしまう、なんとも言えないこじらせ感。うわあ感。
たとえば舞台のAKBに体育会系独特な「おらおら」感を見て、あぁなるほどこれがAKBのヤンキーイズムかと認識し、そしてめちゃイケ特番でいろいろやっている大島優子を見て以前に同様の企画をやっていた中居と比較してそこにヤンキーイズムを見てとり、これはメタなフェイクドキュメント企画であり、最後に「フィクションです」と表示される予定調和を前提として認識しながら、しかしそれでも大島が熱湯にハマるときには大島単独ではなく岡村も一緒にハマることで以前まゆゆを蹴り倒したときの加藤への殺害宣言的なものへの抑制効果でもあるのか、と裏側を考える。
最後を迎えた「笑っていいとも!」にネットの上はタモリさんご苦労様という、まるでタモリが引退したか死んだかというお通夜ムードの中、ニヒリズム横溢する視点でそんな情動溢れる記事を辟易と眺め、さらには各芸人が語る「いいとも!」最終回舞台裏をいろんなブログが書き起こし見たこともないブログがホテントリしているのを見つつも、そのわきでイケハヤが「ボクが書き起こしをすると怒られるのにいいとも!の書き起こしは怒らないんですね、みなさん」などとイヤミったらしく書いているが誰もまともに取り合わない情景を見てモニターの前でついニヤついてしまう愚かしさ。
サブカルとは御しがたく救いがたい生き物である。
何かを見ては裏を読み、さらには意味性を求める。
オタクとは違う、と上から目線で差別観を持ち
「サブカル嫌いとかいうけどさ、まずサブカルを定義してから言えよ」
とめんどくさい。
対して定義厨と返せば
「~~厨とかさ、カテゴライズするのは楽だろうけど、それって思考停止だよね」
と否定すら否定し返す。
クリティカルシンキングをベースにニヒリズムと知識を武器にし
「物事を素直にうけとらないことはすばらしいことである」
「何ごとにもメタファーが存在する」
「簡単なことを簡単に考えるのは愚民」
という金科玉条を掲げジャーゴンを振りまわし「オレってイケてる」と勘違いする。
ベタとはヤンキーイズムであり、そういう教養主義を否定し行動主義を賛する思考を唾棄して見せる。
しかしそんな「ベタ」に感情的に好んでも、感情をメタに自覚しながら「あえて“ベタ"」「一周回って“ベタ”」など理由を付けないといられない。
以前にメタルフェスにももクロが出演することが決まった際、長谷川町蔵が
メタラーたちの寛大なハートに付け込んでパフォームしておいて、その夜「ももクロが一番ロックだった」とサブカル糞野郎たちに口々に呟かれる。一体これはどんな罰ゲームなんだろうか?
— 長谷川町蔵 (@machizo3000) April 14, 2013
こんなことをつぶやいた。
そのツイートを見たサブカル野郎はみな
「お前の本を買ってるのはそのサブカルクソ野郎だし、お前もだろうが」
そう思った。
サブカルはサブカルを嫌う。言いえて妙である。
いや、サブカルは「自分が一番イケてる」とどこかで思っているのだろう。
だから他のサブカルをクソ野郎呼ばわりする。
旧約聖書の一説にこうある。
エホバくだりてかの人々の建つる町と塔を観たまへり・・・
いざ我らくだり、かしこにて彼らの言葉を乱し、互いに言語を通ずることを得ざらしめん・・・
ゆえにその名はバベルと呼ばれる・・・旧約聖書:創世記・第一一章
言葉とは自己が他者と理解しあうために存在するが、しかしその言葉だけで伝わらないからこそ争いは起こる。
ひとはどこまでもわかりあえない。
ストリームとして押し寄せる情報を己が知識によりて処理を行い、それによって世界を認識する。
サブカルにとっての世界とは、間違いなくひととは違うのだ。
それが違うのか、同じなのかを確かめるすべはない。
ひとは自分自身から外には出られないのだから。
だから今日もまたこうやってサブカルは記事をつづり、はてなの中にあってもこれだけ自覚的に記事を見てメタに思考し記述するブロガーなど無いだろうと独りごちる己の業の深さを認識しながらもそれでもやめることができない。
サブカルとは哀れな生き物である。
だからこのブログは哀れなのだ。
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