オシャレピープルの小粋なリテラシーhatena

失恋ショコラティエ 8 (フラワーコミックスアルファ)
どうにもGW惚け過ぎて本調子でないので肩慣らし。
ご容赦のほどを。
不思議な捻れを感じる、最近のはてなについて考える。 - 団劇スデメキルヤ伝外超

最近、増田界隈では、非表示リストの公開が(また)ホットになってますが、そういう捻れは前からあったのかも知れないですが、はてなを考えたときに思い浮かんだのは、「ねじれ」でした。

ちょっとリア充よりになってきているのですかね?冒頭の記事の中にあった印象的な一文を引用すると…。

話題になるのは、やはり影響力のあるアカウントで、最近でよく見るのは
引用部には具体的なIDが続くのだが、はてなブックマークにしろ、はてなブログにしろ、古参の影響力はやはりつよい。しかし、それらを貫くように飛び出すニューカマーもいる。はてな女子なんて言葉が、象徴的かもしれない。

はてな古参による「面白くない」やリア充的な動き、はてな女子などに感じるねじれ現象、ですかね。
ちょっと我田引水であれなんですが

はてなとは修羅の国ではない。
愚かしい新人ブロガーを柱に縛り付け火をつける行為は、はてなの目指す先ではないのだ、と。

(中略)

はてなの村はミスキャストでいっぱい。
気づけば、いつの間にか世代交代が行われたはてなの村には、女性の比率が増えオシャレなカフェや新興のブログが立ち並ぶ。
そこにはダイアリーで殴り合いidコールでメタブタワーを建て「今からそっちのマンション行きますわ」にまで至った戦争の記憶は埋め固められ、生き残る口うるさくも理屈っぽい旧来的なブログの住人は過去を懐かしむ記事を投下し己の老いをつぶやき「ネットで年をとるということ」などと自家中毒に自己言及をするウロボロスの蛇を描く。
そしてイケてると自負する若手ブロガーからは、老害と呼ばれ忘れ去られ多くが失われる。

かつて「限界集落はてな村」と呼ばれた場所。
もはやそこは村とは呼べない。
その姿が中身の伴わない虚飾であれそれを街と呼べば、それは街なのだ。

http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2014/04/10/121401

過去記事より。
はてなというとテキスト文化と言いますか、やはりゴリゴリの長文を繰り出し、言質によって場を構築し理論によって崩し打ちのめすマッチョな不思議時空に生きるギークのイメージがあったわけですが、いわゆる古参と呼ばれたような濃い方々がストック型のブログに飽き、フローでありコール&レスポンスの早いTwitterであったり、あるいは実存と結びつくFacebookなどに移行し、あるいははてな公式の推すところの
「オシャレなリテラシー それがはてな
というよくわからないパッケージ戦略によってPressoやはてな女子が投下された。
一本包丁 満太郎 6 (集英社文庫―コミック版)
「一本包丁満太郎」ってマンガで牛丼vsハンバーガー対決があった際に、満太郎は女性客を呼ぶために「向かい合ったカウンターだと、前の人に自分が食べている所を見られて女性客が寄り付かない!!」とカウンターの位置を変える。すると女性客がやってくる、みたいなほんまかいなって展開があるわけですけれど、このカウンターの変更がはてな公式による「はてな女子枠」であり「Pressoのアイコンに見られるおしゃれ感」なわけですね。

案の定、ブコメで相変わらず喧々諤々やってるのは濃い面々の大喜利なんだけれども、はてな全体としてはオシャレ化を図ってる。
さんざ見づらいと揶揄されたGUIの変更であったり、はてなブログのアイコンであったり。
ダイアリーよりもブログの方が、小洒落てるイメージを出してるのは気のせいですかね。
アイコンにしろそうですけれども。

その辺は長期的に見ればギークなかつての「限界集落はてな村」の論壇よりも、広くて浅いマジョリティに訴えるほうが当然ながらトラフィックの増加も見込めるわけで、たとえはてブホテントリにクソみたいなまとめやアホらしい記事が無言ブクマで並んだとしてもその記事品質の指標としての効能よりもあくまでも「話題がある」ということを重視すればむべなるかな。


はてな的には「一本包丁満太郎」を語るブログよりも「失恋ショコラティエ」を語るブログの方が欲しい。
インターネットのすそ野が広がり、スマフォ文化が主体になればなるほど長文は嫌われ、もっと直観的でまとめられた(それが安直であれ、恣意的であれ)インスタントな情報こそが尊ばれる。
どれだけ繰り返されても尽きることなく「お勧め本ベスト10」は作られ続け、ホテントリし続け、ブログは孤高と孤独である代わりに主義主張を叫んだ時代は過ぎ、孤独ではなく結びつきを求め、迎合し安寧の中で平和なキャッキャウフフに喜びを見出す。
しかし燃える火にどれだけ近づき身を焦がさないかを競うような旧来的なはてなからすれば、そういう「甘い匂いはするけれど毒にも薬にもならない」ものは面白くないと感じる。

はてなには、デヴィッド・リンチよりもスティーブン・スピルバーグが欲しいわけです。
ウド・キアーじゃなくてブラッド・ピットが欲しい。
「ゴッドタン」よりも「王さまのブランチ」
「スーパー食いしんぼう」より「食戟のソーマ
他のブログサービスには、有名タレントなどで一般層にアピールできる力があるわけで、そういうトラフィックこそが現状のメインストリームになっている。


かつてスタンドアロンだった「オタク」と言う存在がネットや秋葉と言う結びつきを得て希釈され、オタキングは「オタクは死んだ」と嘆いたわけだけれど、時代が変われば価値観が変わり、新たなツールが産まれ普及しそれを担う層が変われば、それに応じて価値観そのものが変わる必要もある。でなければ時代のあだ花として消え去る。
驕る平家は久しからず、色即是空空即是色な世界は常に変わり続けるのであればこれもまた必定。
パラダイムシフトのただ中にあればそれに違和感を感じるのは仕方が無いことだし、それを嘆いて離れるのも仕方がない。

「美しい蝶は、芋虫だった自分を『醜い』と思うのか。芋虫は、美しい蝶を見て『羨ましい』と感じるのか」*1
姿がいかに変わっても、己は己でしかない。


このブログは時代が変わろうが、相変わらず通常運転なわけですが。
LILY‐C.A.T.(リリイキャット) (ソノラマ文庫)

*1:LILY C.A.T