音楽を聴くとき、意識しておくと聴き方が変わるかもしれないあれこれ

This Is Hardcore + Like a Friend

魔法

この前本屋で立ち読みしてたらいろいろなこどもの疑問に専門家が答えるみたいな本がありましてね。
その中で「音楽ってどうしてあるんですか?」みたいな質問がありまして。
正確じゃないかもしれませんが、立ち読みなんでうろ覚えです、えぇ。


答えてるのがジャーヴィス・コッカーなんですよ、パルプのボーカル。
あの、ジャーヴィス・コッカーですね。

で、まぁジャーヴィスが音楽について、無いとおまんまの食い上げだねー、と語ったあとに
むかしむかしはコトバよりも前に音楽はあって、その頃は音楽を鳴らしてコトバが通じなくても踊ったりしてたんじゃないかな、と。
音楽はコトバが解らなくても理解できる。たとえばコトバの解らない外国に行ってその国のラジオをかけたとしても流れてる曲が楽しい曲なのか悲しい曲なのかは何となくわかるよね。
音楽っていうのはそういう魔法じゃないかと思うんだ。

なんて素敵な答えをしてて、とてもマイケル・ジャクソンのステージに「マイケルが気にいらないから」と乱入したり、映画「LIVE FOREVER」で半分ラリった状態で答えてるあのひととは思えないステキな答えをしてまして。

そんなわけで、そんな魔法「音楽」を聴くときにいろいろと意識すると聴こえ方や聴き方が変わるんじゃないかな?と言う記事のはじまりはじまりー。

楽曲の構造

ド→レ→ミ→ファ
という曲があったとして、もしこれが
レ→ファ→ド→ミ
ならこれは別の曲になってしまう。
日本語は語の結びつきが強いので単語でバラバラにしても意味が通じたりしますが、英語では音楽と同じくバラバラにすると別の意味を持ったり破たんする。
※もちろん語を一音単位まで刻めば日本語ですら意味が破たんはしますけど

楽曲は、ひとつの音と次の音、そして次の音が並ぶその「結びつき」が旋律になる。
その音の結びつきを楽器によって鳴らし、幾つもの楽器の音を重ねることでひとつの曲になってる。
さらにはそこにリズムがあってそのリズムと合わせたりズラしたりしてる。
歌、と言うのは特権的に感じますがそれは音声に意味が付与されているからで、意味をそぎ落とせば声音もまた楽器のひとつ。
クラップ(手拍子)、口笛などと同じく身体の一部を使って出す音。

「楽曲は歌に音が付いているのではない」と言う理解が根本にあると聴こえ方が違います。
もちろん、そういう意図があって作っている楽曲もありますけどね。


音楽はコトバが通じなくても解る、これってすごいことで単なる音の繋がりを聴くだけでそこに意味や情景や温度を感じたりするわけです。
音は音でしかないのに、繋がればそこに生理的に感じる高揚感やさまざまな意味が産まれる。
コトバは「○○は○○である」という論理があるから意味が発生する。

映画なんかで効果音として鳴るだけで怖がらせたり映像と合わせて恐怖をあおったり、逆にとてもおだやかになったり。

Suspiria - Suspiria, Goblin - YouTube
そういう「意味が付与されてない単音が繋がることで意味が出来る」というのは面白い。

共感できるから「名曲」

ところで好きな曲を聞かれて答えるアンケートなんてのが良くありますが、その理由で目につくのが「共感できる」なんですよ。
でも「共感」は、歌の歌詞、コトバに対しての共感であって楽曲に対してじゃあない。
コトバがいいのなら「名曲」じゃなくて「名文」じゃないですか。

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人間って器用じゃないのでストリーミングで感覚器に情報が入ってきてもマルチタスク処理が出来ないわけです。
それが出来るのは聖徳太子くらいのもので。
なのでまず「楽曲」を聴いたときに意識は歌(声)に向かいます。
声と言葉。これが第一プライオリティ。

そして次がメロディですね。
メロディ(主旋律)は歌をなぞる、補完しているモノが多いので歌(声)と共に聴ける。
「共感できる」と言う方の理解は、この辺で終わるのが多いんですよね。
メロディを聴いて、次は歌詞の理解に向かいます。
つまり「楽曲」を聴いていても意識を向けて「聴く」のは歌(声)とメロディ。

歌の深読み

フジテレビ深夜「久保みねヒャダこじらせナイト」を観てる人は知ってるかと思うんですが、

あの番組で「こじらせソング」というコーナーがあって、歌詞の深読みをするんですよね。

大黒摩季「あなただけ見つめてる」を深読みしてみると。
「あなたがそう望むから化粧をまず止めたわ」彼氏ができたら更に可愛くするため化粧をするのが通常なのに言う通りにやめ、これまで遊んでて寄り道してアッシーだのメッシー(死語)だのも切り捨て、でもパーティーには行きたいw
「アナタの微笑みは薔薇色の鎖」ってどんだけ束縛されたい願望やねん。
益若つばさをイメージするとすごくしっくりくるのはなんでしょう 笑

で、最後の最後に
「行け!夢見る夢なし女!」
と歌って、果たしてこの曲の語り手の目線はどこにあったのか、と。

つまり最後の行で
「~と言うような都合のいい女は勝手に夢見て振り回されてろや!!」
と突き放してるようにも読めて、だとしたらこれはすべてアンチソングなわけですよね。歌詞が作中作になっていて、一番最後の行はその歌詞の歌い手目線であり、そこまでの「都合のいい女」はすべて作中のキャラクターでしかなくそこで語られるエピソードや感覚はすべてアンチテーゼであった、と。
「夢のハイテンショーン!!」とか言ってる都合のいい女をさんざ演じて最後の最後でひっくり返す。
じ、叙述トリックの構造じゃないですか!!!
※と言う読み方もある

この歌に「共感するー!」と言ってた人も当時多かったと思うんですけど、それってこの歌詞のどこかの「部分」に対して「共感する」のが大半であって、別に全体や深読みしたうえで「あえて都合のいい女を歌っておいて皮肉ってるからそれに共感する!!」なんて読み方はしてない。
ラブソングに自分を照らし合わせるとき、その歌詞のどこかの情景がグッとくればそれはもう「共感」なわけです。

音を聴くか歌を聴くか


Charisma.com / イイナヅケブルー from 6/4 release "DIStopping ...
Charisma.comの新曲「イイナヅケブルー」
いわゆる「文化系ラップ」とか言われてるんですけれども、確かに歌詞を見てもBEEFとかやってるラップ文化とはトラックにしろ別軸で、これを聴くと面白いんですが、歌メロがボーカルを補完してるんですよね。これが構造として面白い。
ラップって多くがメロディとボーカルが乖離するんですよ。
歌をなぞるとなるとどちらかと言えばミクスチャーに近くなる。エレクトロとラップのミクスチャーじゃねーか、と。

JAZZDOMMUNISTERS 『DRIVE』(PV) - YouTube
菊地・大谷とOMUSUBI(SHIMILAB)のJAZZ DOMMUNISTERSですが、これを聴くと背後のシンプルなトラックと菊地なりのリリックはかい離してる。あくまでも一部が同期しているだけで声音成分のメロディ補完をしてない。
音楽として、意図的にポリリズムとか訛りを出そうとするのがDCPRGだったりJAZZ DOMMUNISTERSなわけですが。


ラップと言うのはリリック(歌詞)が重要で、トラックももちろん重要なんですが、その歌詞の意味性を重視するからどれもこれも似たような音で似たようなラップでも構わないわけです。
音楽的指向の向上を目指すラップ、と言うのは米国のブロンクス発のラップの流れからすれば亜流ですね。
蟹江さんなんてそういう感じですが。

Kanye West - Stronger - YouTube


aiko の「花火」の構造が凄い!
こういうコード進行の妙とかaikoSUGEEEE!!!ってのは有名なわけですが、前述したようにボーカルとメロディの補完構造とかリズムの訛りだとか、ひとつの楽曲って単にコトバに音をつけたものではないわけで、だからこそ「共感できる」じゃもったいないわけです。
イチゴの一番甘いところだけかじって「甘くて美味しい!」って、いや、イチゴを最後まで食べたら酸味とかどこまで美味しく食べれるかとか粒々がプチプチ歯で潰れる触感の楽しさとかあるわけですよ。
もちろん別に贅沢食いでも構わない。悪いっていうんじゃなくてね。
理解ってすればするほどきりがない、そこに面白みが詰まってたりする。

ジャズ/ヒップホップ


余談ですが、最近ジャズ界でロバート・グラスパーが注目されてる。
ラップを聴く人なら
「え?ジャズとラップって今さらじゃね?ATCQだってジャズ使ってたっしょ。Nujabesとかさ」
って考えるかと思うんですが、アプローチの方向が全く逆だから面白いんですよ。

ブラックシープにしろそうですが、ATCQにしろ「ラップのトラックとしてジャズを使ってる」のであって、逆ではない。
主:ラップ 従:ジャズ
ところがロバート・グラスパーはジャズ側から
主:ジャズ 従:ラップ
と言うアプローチをしてる。だから面白い。
レコードを継ぎはぎしてトラックを作りそれにラップを乗っける従来のやり方じゃなく、なうてのジャズミュージシャンが演奏をしてそれにジャズボーカルではなくてラップを乗せる。
ブラック・レディオ
↓こちらでそんなグラスパー「Black Radio」の批評(というか否定)がたっぷり読めます。
Robert Glasper Experiment: Black Radio
ジャズ聴きからすれば「うーん」というアルバムだったと。
この批評(2012年)ののちにグラミー賞を獲得するわけですね。

ジャズと言う音楽が内向的にその技術とか古典をなぞるしかないのならクラシックみたいに高尚なマニアだけがキャッキャウフフする世界で終わっていくのかな、と。
外野は勝手に思うわけです。

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こういう何かを嗜好するクラスタがそのジャンルから乖離したモノを聴けば拒否反応が出たり、否定するのも当然の動きですけど、でもそれが老害だのなんだの言われてしまう時代なのですよね。しょせんは音楽の一ジャンルですからフォーマットだのテンプレートだの作法だの、それを言い出せばもうほこりを被っててくださいとしか。
だからこそ「ロックは高尚な技術の果てにあるのだ」とのたまうHM/HR界隈のお歴々にはつくづく...おや、誰か来たようだ。

まとめ

音楽の聴き方っていろいろあるわけで、もちろんどれが正解ではないし「音を楽しむ」から音楽なのだけれど、だったら音じゃなくコトバに共感するのって「音楽」の理解としては随分と浅いよね、と。
ミスチル地蔵だとか言いますけど彼女らは音楽じゃなくてミスチル桜井の「コトバとセカイ」が好きなのであって、だから他の曲では地蔵なわけですよね。
でもバンプオブチキンだって間奏中はファンも棒立ちでリズム隊の演奏そっちのけでキャーキャー言って楽曲なんて聞いてないし、ももクロにしろコールだのなんだのでトラックを潰す。
別にミスチルだけじゃないとは思うんですけどね(ただ棒立ちで場所取りはやめれ)。

歌しか聴かない聴き方は主流だけど、セカイとしては狭くてもったいないですねー。
そんなお話でございました。

うたのしくみ