当事者体験の無い「感覚」は風化する
広島広島原爆原爆うるせーんだよ!!
というトゥギャリを読んだ。
毎年毎年繰り返される広島原爆投下のニュースなどに対してのツイート。
そりゃ当事者意識なんて当事者でなけりゃあいずれ薄れてしまう。
歴史とは知識でしかなく体験ではないし、そのつらさや悲しさ痛さを身近に目にしたり己で体験をもしていれば「こんなひどいこと」と実感をするしそれなりの気持ちも抱く。
ところが体感しない歴史は、データでしかない。
データには書けない当事者の体感した「感覚」が欠落してる。
織田信長や小野妹子や原爆投下は、すべて同列に時間の差があるだけの教科書に書かれた「過去にあったらしいこと」。
倫理や生理とは、感覚が生む。
そこで語り部と言う体感したひとが重要になる、と言うのは解るが残念ながら体験を語っても通じないひとには通じない。
そういうひとにとって「感覚」は体感しなければわからない。
若いひとにそれを知ってもらおう、と思ったって嫌なことをわざわざ見たくもない。
遊んでる今が楽しい。
まだまだ死ぬまで先は長いし考えもしない。
退屈な話を聴いてる時間があるならもっと遊びまわりたい。
小うるさい老害の言うことなんて聞きたくもない→「この死にぞこない」
たとえば今エボラ出血熱での被害が急増してる。
とはいえ日本には、検疫が機能してウイルスは持ち込まれていないらしい。
だからエボラをダジャレにするひともいる。
「エボラの証人」
ところがもし「国内でエボラ患者が発生」などなり死者が出て、エボラギャグなんて言おうものなら「不謹慎だろうが!」と叩かれ始める。
よく「飛行機に日本人乗客はいませんでしたっていうニュース嫌なんだよなー」と言うひとがいるけれども、しかし海の遥か向こうの事件や大昔にあった戦争や殺人を悲しめるほど人間は想像力豊かではない。
明文化され、理性的に判断すれば「飛行機に日本人乗客はいませんでしたっていうニュース嫌なんだよなー」に繋がるが、とはいえそれをいうひとにしろ飛行機の乗客への哀悼の気持ちは小さい。
仮にエボラが日本に持ち込まれたとする。
それでも大勢は変わらず出社をするだろう。
一部はマスクをするだろうが、実際的には一般的なマスクでは防げない。
とはいえ急に頭からかぶるマスクは恥ずかしくて被らないだろう。
だから当然広まる。
広まりそんな中でも
「ニート最強!」
「引きこもりが最強の防疫である」
とかツイートしてる輩は余裕もあるのだろうが、そんな方に友人や家族に被害者が出たとして
「エボラ焼き肉のたれ」
なんて言ってたことをどう思うのか聞いてみたいところではある。
家族や友人など親しい関係者全員が死に絶え、自分も感染しそれでも死ぬ間際まで医者と看護婦を相手にベッドで毒を吐きダジャレを言い続けるならそれはそれでいい。
さて「痛み」とはどの程度で感じるのか。
取引先の人が死ぬ、同僚が死ぬ。知人が死ぬ、友人が死ぬ。
元彼女が死ぬ、彼女が死ぬ。
家族が死ぬ、妻が死ぬ、子供が死ぬ。
繋がりが多ければ多いほど「痛み」は多く、深ければ深いほど強いだろう。
自分自身が感じ、途端それまで無関係と思っていた事象を実感し当事者の側になる。
そうならなければ、理解できない「痛み」は多い。
ジローズ 「戦争を知らない子供たち」 - YouTube
ジローズ「戦争を知らない子どもたち」が歌われたのが1970年。
その当時で既に戦争を知らないと歌われているのに、それから40年以上が経過している。
戦争をしろとか、滅ぼせとか、武装するべきだとか、戦争は絶対反対だとか、武装なんてとんでもないとかいろいろと意見はあるだろうけれども、それらのほとんどは体験ではなく知識と理論で語られる。
体感から来る感覚や意識が欠けている意見は理路整然とキレイだが、その実際が伴わず空虚。
「あー、戦争でも起きねーかなー」
というつぶやきは不謹慎な面は確かにあるが、その未成熟な理不尽さが許されるほど現代は安寧。
何が良い悪いと言うつもりもない。
世界の中で、頭だけでわかることはたかが知れている。
そして未成熟なほど見える世界は狭い。
メメントモリ*1で生きられるほどの危機感なんて持ってない。
*1:常に死を思え