キャラの存在理由 野田彩子「わたしの宇宙」
中学二年生の津乃峰アリスは、クラスメイトの星野宇宙から「自分達がいる世界はマンガで、僕が主人公である」と告白された。そう言われてみると、確かに見える「フキダシ」。常に“何者か"に“読まれている"状態での学校生活…アリスのプライベートも、心の中も、すべて丸見えに? そしてその先にある「真相」とは?
自分がマンガの主人公であることを自覚している主人公と周囲の日常。
↓自覚がある。
現実でも、人間は産まれて「どうして自分は生きているのか?」と意味を求めてしまう。
もちろん正しい答えはない。
自分がなぜ存在しているのか、自分とは一体なにか?
マンガの登場人物が悩むのも同じ、答えはない。
作者がそれを考え、そこに書いたから、としか言いようがない。
一風変わったメタなマンガ。
吹き出しが作中の登場人物に見えるのかどうかは不明だが見えるらしい。
興味のある方は一読をどうぞ。画力はとても高い。
二巻で完結……このネタで長編はしんどそうなので、いい長さかもしれない。
↓試し読みページ
▲IKKI PARA 試し読み 【わたしの宇宙/野田彩子】
漫画の登場人物は、作者や読者などがその紙面に書かれた絵を見ることで脳内に再生される虚構の存在。
俗に「メタ」と言うが、山口雅也は短編「不在のお茶会」で小説の登場人物をメタに扱って見せ、竹本健治「ウロボロスの偽書」で作者自身が作中に登場する入れ子構造を使った。
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作品の終わりは世界の終り。
とはいえ作中に「マンガとして描かれていないときに吹き出しは出ない」というセリフがあることから作中人物は「マンガとして描かれていない間も自我があり、時間を過ごしている」と言う認識を持っている。
つまり本来、マンガの終わりは描かれている世界の終わりとイコールの筈。
だけど、彼らには終わりでも何でもない(と認識している)しそれが正か誤かと言えば、果たしてどうか。
もちろん「作品は終わっても読者の心の中にいつまでも残り続ける」ということだけれど。
後半結構こじらせるのは、作中に作者が登場してからですが、これもまた「作中のキャラ」はキャラでしかないように作中の作者もまたキャラでしかない。
竹本健治流に言うなら大(現実)の作者と、小(作中)の作者と言うか。
後半で、よく解るのがメタなキャラクターの存在が実は
マンガのキャラ←←読者
と言う関係ではなく
マンガのキャラ←作中の作者←作者
という視点であって、かなりパーソナルな思い入れが、後半強くなる感じなのはその辺の影響だと思う。
つまり「読者が読んでいる間に脳内に再生されるキャラクター」ではなく「作者が書いているとき、脳内から紙面に描かれ存在し始める世界とキャラクター」という視点の差。
なのでパーソナルになる。
上記の通り、メタな作品の多くが「読者/キャラ」なのに、この作品では「作者/キャラ」なのが面白い。
マンガは作者と言う個人の作りだした世界。
それが読者に共有され認識されその世界が広がる。
共有された時点で個人から手を離れ、しかしその世界を書き続けない限りその世界は続かない。
こじらせてるなー。
ちょっと変わっていて面白かった。
特に読者に入浴シーンを見せないために「重要なことを起こせば入浴を描かないはず」と慌てて何か事件を起こそう、なんてのもかなり秀逸な発想。
青春で己のことを悩むように悩むキャラクターと言う青春絵巻。
最終的には、作者が作中で同様に悩んでしまうおかしさ。
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