少女マンガと少年マンガのベクトル
CMって、より多くのターゲットが「そう思いそうな」「共感出来そうな」ものを、作る側が妄想したりあらゆるデータから算出したりして制作されているのだと思うのですが、
「男友達」と「女友達」の描き方、相当安易じゃないですか??
私が思いつく限り、
「男子は同じ方向向いている場合が多く、
女子はなにかを中心に向きあっている場合が多い」
のです・・・。
これはCMに限らずマンガなんかでも言えることではないかな、と。
以下に(今さら感はありますが)プチ考察を。
※何周目やねん、禁止で
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もちろん全てではないですが(と前置きしておかないとイレギュラーを反論の軸にする方がいるので)少女マンガでは主に人間関係(主に恋愛)を扱う。
内面描写が多いのも少女マンガの特色ですよね。
ここでは漠然とそういうものを「少女マンガ的」と仮に定義しますが。
たまに見かける独特の、時制を無視した内面描写の立ち切りコマも外部世界よりも内面世界の語りに重心がある。
背景が真っ白でも、トーンベタ張りでも、主人公の内面描写は徹底して行う。
目線が自身の内に向いている。
反対にそうでなければ、女性マンガ家でも連載誌が少女マンガ雑誌でも、「少年マンガ的」(とする)。
ダンスに夢中の花ゆめで連載してる魔夜峰央とか、萩尾望都らの影響を受けている山下和美とか。
高野文子も「少女マンガ的」とは言いづらい。
吉田秋生なんかは難しいところ。
で、反対に少年マンガは外向きのベクトルを持つ。
だから背景を書きこみ、世界の設定を行う。
コマで時制を操り、映画のような世界を紙の上に落とし込む。
背景の情報量(マンガ内外部世界)がメタボリックに増えまくると大友克洋になる。
少女マンガ的、少年マンガ的と言うのは絵柄のことではなく、ベクトルや構造のこと。
高野文子の「るきさん」は連載誌が女性誌Hanakoですし、女性マンガ家だけれど、るきさんの内面描写がほぼないから「少女マンガ的」とは捉えられづらい。
今は、ちくま文庫から出てますしね。
だからいわゆる当時の「ニューウェーブ」の文脈に組み込まれたんですが*1。
高野文子の凄さは、内面ではなく空間把握能力と言うか空間の表現力ですから。
で、ベクトルの話。
女性同士を表現するCMのベクトルは
↓
→ ←
と言った感じ。
男同士は
↓↓↓
あるいは
→→→
みたいな感じだ、と。
これってだから
ヒロイン
↓
男A→←男B
ボヤッキー ドロンジョ トンズラー
↓ ↓ ↓
ルフィー→ ゾロ→ サンジ→
こんな感じ。
このベクトルの違いが暗喩としてCMにも出てる、ってことじゃないですかね。
少女マンガの場合その先に相手、人間がいて関係性を重視し、
少年マンガの場合、敵や旅に出る世界や目指すべき目標がある。
小ネタでした。
どっかで高野文子を語るってのをやりたいなぁ(前にもやったけど)。
最近の「名作漫画100云々」ってブログ記事に高野文子がまず出ないって言うのが悲しいもんですよ、ったくね(近作でも「ドミトリーともきんす」があるってのになぁ。天才だけど寡作だからしょうがないが)。
*1:大友克洋、吾妻ひでお、高野文子、諸星大二郎、高橋葉介などなど