世の中に「アブない」ひとが、けっこう多くいる。
たとえば道を歩いていて、いかにも危なそうな人には近寄らない。
「神の啓示だ!人類は一度滅びなければならない!!」
とミカン箱の上に立って叫んでればとりあえず避けて通る。
iPhoneで聴いてる曲のボリュームを上げる。
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「アブない」とはなにか?といえば常識からの振幅だろう。
漠然とした、暗黙知として共有される常識の範囲からどこまで離れているか。
振幅が大きければそれは暗黙知の常識と比較し「非常識」「アブない」と認識されうる。
photo by joshunter
「アブない」ひと自身に「非常識」「アブない」と言う認識はない。
非常識なひとは「非常識」「アブない」を常識の範囲内だと思っている。
誰かに「オマエは非常識だ」「お前がやってることはおかしい、アブない」と言われても、自分自身で間違ったことをやっている認識はないし、そうやって注意してくるやつの常識の方がおかしいと他人の認識を否定する。
だから「アブない」ひとは変わらない。
ネットと言うのはそういう「非常識」「アブない」ひととぶつかってしまうことがある。
ネットでは距離がゼロであり無限だから仕方がない。
そういうひとには何を言っても通じない。
そのひとにとっての常識は世間の非常識。
でも自身の常識が最も正しい。
話してわかるくらいなら、説明して理解できるならそのひとは最初からアブなくなんかない。
話してわからない、理解できない、理解しようとしない、相手を否定するからこそそのひとはアブない。
「アブない」ひとが自分を肯定しようとすればするほど、そのアブなさを露呈する。
その肯定する行為自体が、アブなく見えるというのに。
「アブない」ひとは全てにおいて「アブない」わけではない。
なにかしらの価値観や認識においてのみ振りきれている。
だから現実ではわからないことだってある。
現実では大人しい常識人に見えても、ネットで、とある話題でだけ荒れ狂っているかもしれない。
友だちとして付き合っている分には問題がなくても、恋人として付き合えば見えるかもしれない。
同僚として付き合っている分には問題がなくても、あかの他人として付き合えば見えるかもしれない。
政治、宗教、思想、何がトリガーになるかはわからない。
学歴経歴年連などは関係ない。
誰しもがそういう面を持つ可能性はある。
何かのきっかけで感情によって振り切れる可能性だってある。
みんな常識に関して答え合わせをしているわけじゃあない。
常識からの振幅~ズレは誰しもが持ちえる。
大なり小なり。
だから自分がアブないと言われたら、自身がズレていると言う認識を持って、話を聴くことも大事だろう。
話を聞かない、否定する、攻撃する「アブない」ひとはどこまでも救われない自家中毒。
オレは悪くない、間違ってない、正しい、自分を理解しない他人が悪いのだ、と言い続ける。