ミニマリストの父と「きもちわるさ」
※ミニマリストの信仰自体を否定しているわけではありません、主語を大きくしないように
「ミニマリスト界隈がきもちわるい」という話を目にするようになってきた。
この「きもちわるい」について考えていて思い出したことがある。
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ミニマリストの父
以前、どこかのブログを読んでいたら「ミニマリストを目指す!」記事を見つけた。
しかし書き手は、家庭もあるらしいので
「子供はそれを望んでるんだろうか?」
といった旨のコメントを書いた。
独り暮らしの男なら好きにすればいいが、家庭がある中年が思い立ってやることでもない。
子どもがミニマリストを望むとも思えない。
価値観のすり合わせはどうするのか?と疑問に思った。
コメントとしても攻撃的でも中傷でもなく、読んだ上で素直に疑問に思ったので書いた程度。
その後、当然のごとくホテントリとしてコメントが数10ついて浮かんできた。
他のコメントを読んでみようとコメント欄を開いた。
すると無言ブクマ以外のコメントが
「頑張ってください」
「支援ブクマ」
「大変ですけど目指せミニマリスト!」
「思い切りって大切ですよね。頑張って!」
そんなコメントばかりが並んでる。
誰も彼もミニマリズムを絶賛、みんなで頑張ろう頑張ろう頑張ろう。
自分のコメントだけが異物。
そのとき心の底から「ここは、きもちわるい」と感じた。
ライフハックの衰退とミニマリストの隆盛
これは別にミニマリストに限った話じゃない。
過去にライフハックの記事がホテントリして山のように無言ブクマと「参考にします!」のコメントばかりが並ぶのは見慣れた光景。
あれも「きもちわるい」
明らかに疵が見えるのに見て見ないふりをし、ネガティブで後ろ向きなことは書いてはならないと暗黙の了解をもって、無個性で同じようなコメントが並ぶ。
ネットでは、閉鎖的な関係性や空間も広く開かれてしまっている。
物理世界なら有料セミナーだの、青山だの、サードウェーブコーヒーだので、オシャレにライフハックだのミニマリズムだのを語ってればいいが、ネットでは全く無関係な人間にもそれが見えてしまう。
どこか見えないところでやってくれれば誰にも文句を言われる筋合いはない。
かつてライフハックを信奉しているひとらはアレほどいたのに、今やミニマリストがとってかわった印象すらある。
見て見ぬふり
あるときミニマリズムの本を読んだ、という記事があった。
そのブログの過去記事を見ると
「Aミニマリズムの本を読んだ」
「Bミニマリズムの本を読んだ」
「Cミニマリズムの本を読んだ」
「Dミニマリズムの本を読んだ」
とミニマリズム関連の本を何冊も読み、次々記事にしている。
疑問なのが「必要最低限のものだけにしよう」というミニマリズムを信奉するのに、なぜ同じ「必要最低限のものだけにしよう」という中身の本を何冊も読むのだろうか。そんなに何度も別の本を読まなければ理解できないほど難しいことなのだろうか。
同じ内容の本を何度も読む行為自体まったくミニマルではない。
なのに誰もそれを言わない。
「ウワー、ボクも読まなきゃ!」「参考にします!」「買います!」のような賛美コメントばかりが並ぶのはミニマリストな記事の定番。(!←を多用するのもポイントかも知れない)
「LEDライトですごしたら電気代が最低限の~」などという本末転倒な行為まで絶賛されるのはなんだろう。
電気をつけなかったら電気代が減った、というのは、
「新宿から池袋まで電車代がもったいないので毎日歩いて出勤しました」
「家賃がもったいないので公園に住むことにしました」
「水道代がもったいないので雨水で過ごすことにしました」
と何も変わらない。
対価は何かしらの便利に対して払うもの。
利便性を手放し、精神的、肉体的に負担が増えれば対価が浮くのは当然。
そこまで生活を絞り込むなら、そもそも日本に住むことから考え直す方がいい。
モノを捨てる自慢をしてるヒマがあるなら、とっとと禅寺に出家すればいい。
コミュニティは、疑問や冷静な意見に対し見て見ないふりをする。
それが暗黙の了解。
まともに話しても価値観が合うことはない。
ミニマリストとは、物質文明と資本主義に対する狭隘で歪んだアンチテーゼが、極端な形で浅薄な神無き信仰として結実した教義に思えてならない。
捨てると言う行為、減らすと言う行為のみに意味性を感じている。
荷物をすべて捨てて引越せば、ミニマリズムは一度で済む。
あとは増やさなければいいだけ。
減らすのではなく、すべて無くして何を増やすかを考える方がよほどシンプルに済む。
アレを捨てた、コレを減らした。
そんな記事を書いてお互いに減らした自慢をして、だからなんなんだか。
狂える神と信仰
モノを減らすことは悪いことじゃあない。
「使わない、いらないものを捨てよう」
これでいい。
モノからコトへの資本投下の推移も、資本主義の限界や時代性を考えれば自然に思える。
経済を考えれば疑問だが。
ただ何でもかんでも極端に「服は○○着」だの「タオルは○○枚」だの、そんなもん自分が必要と思うだけにすればいい話なのにわざわざ本で読んで、書いてある通りにやろうとか、学ぶ内容だろうか。
読んでる時間の費用対効果を考えても、行為がミニマルではない。
最初の記事にしろ夫がミニマリストだろうが妻は嫌なら別れればいい。好きなら一緒にやればいい。
子どもはかわいそうだが親は選べない。
どんなに価値観がおかしい親でも、親は親。
狂った神を信仰するのは勝手だし、信者の家庭がどうなろうが人生がどうなろうが知ったことではない。
信じる者同士の馴れ合いが悪いとも正直思えない。
ただ外からそのコミュニティを見たとき、あるいはその中に不意に踏み込んでしまったとき。
己と完全に異なる価値観に対しての生理的嫌悪を感じるのは自然なこと。
おかしいことをおかしいと言わない。
褒める、支える、応援する。
それが薄っぺらであれ、ネットの上ではポジティブにポジティブに。
だから「きもちわるい」と感じる。