読んだら忘れる読書術
樺沢紫苑著「読んだら忘れない読書術」の感想記事を見かけた。
記事の中身はさておき自分の場合、読書したことを「忘れない」ことに比重を置いてない。
忘れることも大切だと思ってる。
というか忘れるために読んでいる。
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樺沢紫苑
最近は、悲しいかな読書ではなく読書術ブームだそうだ。
いかにもな「忘れない読書術」というのは感心しない。
著者 樺沢紫苑の評判があまりよくないのもあるが。
blogos.com
たしかこの強引なスパムで燃えた印象がある。
ググればいろいろ出てくる。
こういうことは覚えてる。
脳のどこかに「ゲスな記憶専用」の器官ができているらしい。
ちなみに「読んだら忘れない読書術」の要約を引用すると、
1.本を読みながら、メモをとる、マーカーでラインを引く
2.本の内容を人に話す。本を人に勧める
3.本の感想から気づき、名言をFacebookやTwitterでシェアする
4.Facebookやメルマガに書評、レビューを書く
『読んだら忘れない読書術』樺沢紫苑・著 vol.3984 | 「ビジネスブックマラソン」バックナンバーズ
こんなのわざわざ教えてもらわなくても大半ブログで日々やってる……。
あえて読んで学ぶことがない。
「ブログを書く読書術」で充分足りるのでは?
セレンディピティ
著書「乱読のセレンディピティ」で外山 滋比古氏は、ひとつことに囚われない・偏りのない乱読の重要性と、読んだことを忘れる大切さを説いている。
本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記録しておいても何の足しにもならない。
書物は心の糧である。
(中略)
本についても、過食は有害である。知的メタボリックになる読書があり得る。
(中略)
偏食も過食と同じくらいよろしくない。勉強だといって専門の本を読みすぎると知的病人になりがちである。専門バカはそのひとつである。
不健康な読書/乱読のセレンディピティ
個人的には、こちらの考えの方がしっくりとくる。
頭でっかちで実際が伴わない、本を読んで自分が賢くなったつもりになって「○○とは××である!」とのたまう。
しかし出典はどこかといえばどこかの本の読みかじり。付け焼き刃だから、整合が甘く途端にほころびが生じる。
引きこもりがひたすら本とネットを読みふけり、政治や社会や人生について語る。
観測範囲の狭い頭でっかちの理想論。ネットでしょっちゅう見かける。
身体性の伴う経験や実感、実績が伴わない。
知識と知恵と経験のバランスが悪い。
そうではない。
読んで忘れる、忘れても心のどこかに残る。
あるいは何気ないとき急に思い出す。
そういう知識は自分のものになってる。
忘れてることの中からひらめきが生まれる。
MNEMONICS
記憶のメカニズムは、
目、耳、鼻、口、皮膚などの感覚器(五感)から収集された感覚情報は、大脳新皮質(考えて判断をする、話をするといった高度な知的活動をつかさどる部位)へ送られて分析されます。
次に大脳辺縁系(食欲や睡眠などの本能的活動や喜怒哀楽の情動をつかさどる部位)にある海馬に送られます。この海馬で情報が記憶として一時的に蓄えられる(数分程度の短期記憶)と同時に、情報は海馬周辺の記憶回路と呼ばれる神経細胞に送られ数日間記憶が保持されます(近時記憶)。
そして、再び大脳新皮質(前頭葉など)に送り返されて数か月から一生の間保持されることになる(長期記憶)のです。すべての情報が長期記憶として蓄えられるのではなく、記憶するプロセスの中で多くの記憶はふるい落とされていきます
http://blog.goo.ne.jp/senses1123/e/ca4ce6defa28acd3022fde96db81f971
このようなことらしい。
情報の流れは、
感覚器→大脳新皮質→海馬(短期)→海馬台→大脳新皮質(長期)
こうなる。
海馬に短期記憶、大脳新皮質に長期記憶。
情報は、海馬でフィルターにかかり残しておくものと残さなくていいものに別れる。
あらゆる感覚器から受け取る情報を覚えておくわけにはいかない。
それは多すぎる。
「忘れる」のは「記憶をなくす」と同意ではない。フォーマット、捨てるわけではない。
人間の意識は限られたフレーム(枠)。
フレームは有限で情報の多くはフレームの外に置くしかない。多くの情報はフレームの外に置くうちに無駄と判定され徐々になくなり、大事なもの強烈なものが残る。
だからその情報自体を忘れていても、それはフレームの外にあるだけ。
簡単にフレームの中に戻せたりする。
フレームの中に入れ、記憶を思いだし、そのときに初めて情報が自分のモノになっていたことに気付く。
自分のものになっているかどうかは、一度忘れたと思い、そこから思いだせてようやくわかる。
覚えているときに思いだせるのは当たり前のこと。
忘れるとは何か?
忘れるのは、食事を消化するのと同じ。
食物を食べて栄養にして取り込む。
情報を消化するのが「忘れる」ということ。
結果的に自分の血肉になってればいい。
腕のどの細胞がどの食べ物から出来てるかなんて知らない、知る必要もない。
忘れないのは、いつまでも口の中で噛み続けるガムのようなもの。
すぐに吐き出せるけどガムばかり食べるわけにもいかない。
必要な情報は、必要なときにどこかから自然と転がり出る。
忘れないため、記憶するため読まなくていい。
忘れていても必要な情報は必要なときに意外と思いだすもの。
思いだせないのは、自分にとって必要な情報だと感じないからでしかない。
忘れたくないことは、反復すればいいだけ。
そうすれば記憶は深くなる、重み付けができる。
忘れないことより、忘れることの大切さも少し考える方がいい。
人間、残念ながら忘れた方がいいことを覚えていたりするものだけど。
情報商材、スパム、詐欺商法のひとのことは忘れないが。
気にせずどんどん読み、どんどん忘れる。
するとあら不思議。
いつの間にか血肉になってる。
忘れたらまた読めばいい。
本の知識なんて自分の力じゃない。
みんな読書を高尚なものや大げさに捉えすぎる。
読書術なんてうさんくさいものに期待をしすぎじゃないだろうか。
この記事も忘れて、読書術も忘れて何か読んだほうがいい。
わけもわからず、むやみに本ばかり読んでいると、心眼は疲れ、ものをはっきり見きわめることが難しくなる。読書メタボリック症候群型近視になってしまう。
頭の近視は、目の近視ほど不便ではないから、なかなかこれを治療しようとしない。
(中略)
頭が知識でいっぱいになれば、頭ははたらこうにも、はたらくどころではない。そのうちに、ものが見えない頭の近視がはじまる。
(中略)
知識はすべて借り物である。頭の働きによる思考は自力による。知識は借金でも、知識の借金は返済の必要がないから気が楽であり、自力で稼いだように錯覚することもできる。
読書信仰~知識と思考/乱読のセレンディピティ
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