これを読んで思い出したことがあって。
以前に友だちが部屋に来てマンガを貸したら10分とか15分で読み終わる。
それなりの厚さなのに。
で、「読んだ?」と聞くと「読んだ」と答える。よく聞いてみると
セリフを読んだ→読了した
なのだそうだ。
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ややこしい
こんなのもある。
京極夏彦「姑獲鳥の夏」を貸したらすぐに帰って来た。
で、聞いてみると
「ややこしいところは飛ばした」
と言う。
中井英夫「虚無への供物」や竹本健治「匣の中の失落」、先刻挙げた京極夏彦などのウンチクが多い衒学ミステリはウンチクがストーリーにも意味を持ち関わっている。
「ややこしいから飛ばした」と言うのは、言ってみれば西村京太郎の作品で列車の乗り換えトリックはめんどくさいので無視して最後の崖のシーンだけ観てるようなもの。
そこが肝要なんですがね……。
小説であれ映画であれ、情報というのは様々な形で織り込まれてる。
セリフだけでは無く、人物の距離感に心理が表現してあったり、カメラワークに世界の捉え方が入っていたり。
場所や天気、画面に映り込んだ何かに意味があるのもよくある話。
しかし情報の中でセリフが最もわかりやすく理解しやすい。
コンテンツの中で最も理解しやすいのはキャラクター。
その中でもセリフが最もわかりやすく行動と表情が続く。
だがそれは物語の中の情報の一部でしか無い。
だが多くのひとが「感動した」「共感した」などと言う。
感動も共感もそのキャラクターに対して行うことが多い。
一歩引いて世界を俯瞰して見てしまうと共感も感動も薄れてしまい、その後ろにいる製作者の影と仕掛けに目が行く。
レイアウト・システム
押井守といえばレイアウト。
しかし押井作品を見るユーザーが全てレイアウトに精通しているわけではない。
METHODSを読み込んでるわけでもない。
レイアウトに精通しているから正しいというわけでも無く、知らないから間違っているというわけでもない。
レイアウトやレイアウトシステムは制作側から意識すればいいもの。
観客は必ずしも知らなくていい。
レイアウトも演出も、観客の感性に対して影響をあたえるために理屈がある。
わざわざそれを理解して読む必要はない。
ラーメンがあるとして。
ひたすら「美味しかった」で食べ終わるのもいい。
「わざと太めにしているシナチクはコリコリした食感も良くいい仕事がしてあるし、真空調理されたチャーシューの旨みもまた絶妙で……」などとリアル海原雄山よろしく考えるのも別に間違った味わい方だとは思わない。
それを誰かに説明してしまうと寺門ジモンにしかならないが。
答えがなくても、どんなにしょーもなくても考えるその行為には意味がある。
コンテンツの味わい方にはいろいろあるが、作品に応じてどんな味わい方もできる、というのが一番幸せかもしれない。
とはいえキム・ギドクやデヴィッド・リンチみたいな変態映画監督は暗喩を読むことを必要として、読まなければ単に狂ったシュール作品にしか見えないという困ったちゃんだったりもする。
マンガで言うなら「第三世界の長井」「ウツボラ」や「虹ヶ原ホログラフ」なんかは一定の考察を求める。
何が言いたいかと言えば冒頭に挙げたようにセリフしか読まない、ややこしいところを飛ばすような読み方や見方は別にそれはそれで構わないんだろう。
正しさを唱えても仕方ないし、勿体無いなんて感想はなおさら。
高級な料理を味わって食べても、単なる食事にしても、それはコンテンツを手にした本人の自由。
それをどこまで味わえるかは人によるが。
ただそういったことについて「知性を下げる」と言ってしまうと元々オレの知性は高いんだと思ってるのが透けてるみたいで、ちょっと恥ずいということに気をつけたい。
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