石鹸のあなたへ
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それが、いつからそこに存在したのかわからない。
"自我"のようなものが萌芽し、己の存在を認識したが、言葉やそれに類する概念を持たなかったためそれ以上の"自我"の発達はなかった。
ただそれは、そこにあった。
星がそこにあるように。
何もない空間を漂っていた。
やがて、それは星の重量に引かれ落ちた。
それは決まった形を持たず、星にいた何かしらに似た姿をとった。
姿を写し取るのに、星は豊富な素材であふれていた。
岩石、液体、生物、樹木……。
最初は、単純な仕組みの生物を真似た。
徐々に細胞が増え、複雑な仕組みの生物を真似ることが可能になった。
それには、死がなかった。
長い年月を重ね、様々な生物を経て、データを集めた。
何年も、何年も。
徐々に増やした細胞を使い、やがて「人間」と呼ばれる生物に類する形をとったそれは"言語"を学んだ。
言葉によって世界を認識し、自己を認識する。
何度も何度も人間の似姿を真似して、やがてそれは、人間に等しく、それらしくなった。
それが地球という星に降りてから、数百年の時間が経っていた。
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1
私は、悩んでいた。
気づけば歳をとり、妻も子もいる身になり、かつて見た父のように私もそうなっているのだろうか。
今日は、息子の誕生日だ。
妻からは、ケーキを買って早く帰るように言われていたのに。
後輩からの悩みを聞いて欲しいという頼みを断れなかった。
職場が世間からブラック企業のレッテルを貼られてからこっち、後輩もいろいろ悩みがあるらしい。
残業は状態化している。
労基署の勧告も受けたが、組織が健全化するにも既に病みは深い。
携帯が震える。
妻からだ。
2
後輩と別れ、家路を歩く足取りが重いのは、アルコールのせいだけではなかった。
もう夜は遅い。
息子は、寝てしまっているかもしれない。
帰ると悲しそうな目をした妻がいた。
私は、目を合わせるのに耐えられず、顔を背けた。
私は、風呂に向かった。
妻に呼ばれたが振り向かない。
だが話を避けたのではない。
本能的に、風呂に向かわなければならないと思った。
この感覚に抗えない。
妻のことは、頭になかった。
ただ、きれいに洗い流したかった。
3
風呂に入る。
いつもの牛乳石鹸を手に取り……と思った手が止まった。
なんだこれは?
石鹸は、石鹸ではなかった。
どう見ても石鹸だが、それは石鹸では決してない。
石鹸のように見える何か……。
かつて私がそうだったように、有機物無機物問わずにその似姿を真似て学習する存在。
突然、記憶が蘇った。
記憶、というより、どこかにしまわれていた過去のメモリーに突然繋がった。
脳ではない。
脳に似た感覚器はあくまでもデータを保存するための一次器官でしかない。
数百年前、私もそれだった。
いや、今も私は「それ」だ。
だが長い間、さまざまな存在に似せ続けるうち、データは上書きされ、メモリーは溢れ、過去、自分が何であったか"忘れて"いた。
「忘れる」からこそ人間になれた。
そうだ。
私は、人間ではなかった。
父親どころか、人間ですらなかった。
では、私は、なんだ。
気がつくと石鹸に似せたそれは、消えていた。
だが私が、かつてそれだったことは忘れられずにいた。
4
リビングに戻ると妻の怒りは少し収まっていた。
息子も起きてきてくれた。
少し遅いが誕生日を祝おう。
人間の父親として。
だが私は人間ではない。
だができるだけ人間として生きよう。
この家族が生きている間、私はずっと変わらず、この家族の、父親でいよう。
不器用でも、人間の姿のままで。
私は狂っているのかもしれない。
さぁ、洗い流そう。
美しい蝶は、芋虫だった自分を醜いと思うのか。
芋虫は、美しい蝶を見て羨ましいと感じるのか
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もちろんネタ元は、大今良時「不滅のあなたへ」をイメージしています。
素晴らしい漫画なんですが、紹介する筆力がなくてですね。
是非、一読していただきたい。
え?炎上した石鹸のCM?
そんなのありましたっけ??(シラナイナー
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