リアルガチなリアクション芸が死ぬとき

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この前、カズレーザーでフェイクニュース相当のことをやって味をしめたらしいLivedoorニュースがまたテレビをネタに切り取り、燃やしてる。

炎上なんだか、絶賛なんだか。
この手の企画なんて、今やうるさ方がギャーギャー騒ぐなんて大前提。

ともかく文句を言いたいために見ている人の多いこと。
見ていなくても文句を言いたい連中も多い。
楽しんで観る人らが一程度いたなら、現代のテレビ企画としては及第点。



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天然キャラと笑い

芸能界は、長所でも短所でもそれを生かせるかどうか。
実社会は、仕事が出来なければ生きづらいが、タレントは違う。
なにかを出来ないこと、劣ることがダメとは言い切れない。
要は、見せ方の問題。

テレビで短所を見せ、心なき視聴者に「いじめの構造だ」「可哀想に」と言われてしまうのではタレントとしては話にならない。
可哀想と言われて、可哀想なのは誰なのか。

テレビは、フィクションの世界。
視聴者の住む「現実世界の常識的判断」を持ち込めば当然のようにズレる。
現実世界でハリセンで頭を叩けば相手の怒りを買うだろうが、テレビの中ではそれが笑いに変わる。

プロレスで何メートルもの金網の上から飛び降りるのは常識的判断ならおかしく、危険だろうが、プロレスだからこそ許され、憧れの目で見られもする。
ブル中野は金網の上からギロチンドロップを決め、女子プロレスの歴史に名を刻んだ。
危ないからやってはいけない、ではプロレスは成立しない。
プロレスはプロレス。

結婚も離婚も夫婦喧嘩も、有刺鉄線も電流爆破も釘バットも引退宣言も。
全ての決着はリングの上。
プロレスはフィクションとノンフィクションの境を歩くエンターテイメント。
どれだけ肉体を使い危険な技を見せてもフェイクだと言われ続ける。
汗を流し血を流し、怪我をしても八百長と言われる。

レスラーが危険だなんて観客もレスラーも分かってる。
だからこそ観客は無条件に賛辞を送るし、何も理解しない外野は相変わらず八百長だと騒ぐ。

現実も虚構も、同じパラダイムでしか捉えられない誤認識。
何にでも「正しさ」しか当てはめられず、虚構と現実を見るリテラシーすら失い、単に叩きたいためだけにともかく「正しさ」を振りかざす。

果たして自分の目撃しているものが、フィクションなのかリアルガチなのか。
その区別もつかない。
 
 

リアルガチ

ジャッカス・ザ・ムービー (字幕版)
Posted with Amakuri at 2018.1.29
ジョニー・ノックスヴィル, ジョニー・ノックスヴィル, ジェフ・トレメイン, スパイク・ジョーンズ

モニター1つ越えれば、パラダイムは異なる。

現実をカメラで切り取り、編集されコンテンツとしてテレビに提供された時点でノンフィクションとフィクションはさほど変わらない。

だが今の多くの視聴者は「明確な作りもの」でなければフィクションであることを認識できない。
ドキュメンタリーでもないのに狩野英孝が猛獣に接近したことですら「危険だ」と炎上する。

出川や狩野英孝とjackassを比較する意見もあったが、jackassはバカで無茶なことをやるそのバカな行為自体を笑うのに対し、出川や狩野英孝はバカな行為に付随するリアクションを笑いに転化する。
似ていても、これらは大きく異なる。

ユーチューバーの悪ふざけがリアクション「芸」にならないのは、そもそもの狙いが異なるからだろう。

かつて南部虎弾と組んでいたダチョウは、南部の目指すリアルな方向性について行けず別れた。
そして南部虎弾は電撃ネットワークを結成。
jackassのように体当たりの笑いを狙い、Tokyo shockboysとして世界を回った。

一方、ダチョウ倶楽部がリアクション芸をメタフィクションとして定型化させたのもそんな南部の「リアル」に対しての「フィクション」だと捉えればわかりやすいし、リアルな電撃よりダチョウがテレビで重宝されるのもテレビがフィクションだからこそだと言える。

電撃ネットワークをテレビで使うにはガチすぎる。
フィクションの世界においてはフェイクの方が勝手がいい。
今やダチョウよりアキラ100%の方が電撃ネットワークに近い。


出川哲朗や狩野英孝は、フィクションの住人。
出川が熱湯風呂の湯加減に対して「これリアクション取れないやつだ」と言うように(それが伏線でもあるんだが)「単にリアクションすれば面白い」のがリアクション芸ではない。

熱そう、痛そう、それを悲鳴ではなくどうやって笑いに変えるか?
ダチョウや出川は、フィクション的なカリカチュアライズ(戯画化)を入れ込む。
そこでフィクション性が増し、笑いになりやすくなる。
単なる素のリアクションとそれを昇華したリアクション芸は厳密に違う。
 
 

人生に必要な唐揚げ

有益な情報だけをピックアップして、それを編み上げて合理的に生きていく。
そして、それを世に訴えて行く。これは大事、あれは無駄という仕分け作業。
無駄なものはどんどん切り捨てる。それは、合理的で好きのない知的な生き方だと思う。
(中略)
しかし、体には有益なものしか食べないという姿勢には敬意を払っても、一方でどうしてもこう叫びたい自分がいるのだ。
「唐揚げもおいしいよ」と。
教養としてのプロレス (双葉文庫)

リアクション芸は、観ている観客が悲鳴をあげず、心配することなくリアクションに対して面白みを感じるくらいが成功かも知れない。

猛獣を相手している様子に視聴者が「猛獣なんだからコントロールできないし、あんな危ないことをやらせるなんて!」と番組の裏の事情を考えさせたのは企画的な失敗だろう。

そもそもあの企画、初めてでもないだろうに、一体何回めで炎上してんのか……謹慎前から狩野英孝やってた記憶があるが?

最近は、芸能に対して短絡的な分析や理解が多い。
すぐ自分の「一般常識」を当てはめてしまうのをよく見かける。

遊びがない、融通がない、余裕がない。
小さい頃は「大人ってしょーもないことにうるさいし、自分はあんな大人にはならないでおこう」と思っていたら、いつの間にか、そこらじゅう理解のない大人ばかりになった。
そうやって生きていくのは、果たして幸せで楽しい生き方なのか。

全てにおいて正しい世界なんて生き苦しくてしょうがない。
もうベタでわかりやすい笑いしか通用しない時代なんだろう。
プロレス的なものを受け入れる素養は、すっかり失われてしまった。

白や黒ではなく、グレーをグレーなままで受け入れる。
やはり人生の基礎教養としてプロレスは、広く必要なんだと再認識した。