news.nicovideo.jp
押井守監督が、夢枕獏原作「幻獣少年キマイラ」をアニメ化するそう。
一番気になるのは、キャラが天野画なのか寺田画なのか。
夢枕&押井守なんて、実におっさんホイホイな並び。
まぁ、今の押井ならキマイラを選んだのも大いにありえる話。
【スポンサーリンク】
同じ虚構と現実
押井作品では、一貫して「虚構と現実」を描いているのはいうまでもないが、これは監督自身が学生運動を夢見ながら、いざ大学生になったら学生運動が終焉してしまったという原体験が強く現れているとも思われる。
たとえばうる星やつらビューティフルドリーマーにおいて「繰り返し続ける文化祭の前日」にもその「憧れた学生運動という虚構に遅れ、たどり着かない現実」と相似形になっているようにも見える。
自身は常に事件の外から、自分が仕掛けた事件が未遂に終わるのを見ている。
このテーマは様々な作品に敷衍され、パトレイバーでは帆場英一が虚構の犯罪を行いそれを見ることなく自死する(自身は祭りには参加しない)ことや、パトレイバー2において柘植行人もまた東京分断作戦には参加せず、埋め立て地で独り、取りに囲まれていたことからもうかがい知れる。
どれも押井の写し身に見えるのは気のせいだろうか。
※首都決戦においても悪意の象徴である灰原零は存在しない概念であり、だから監督として理解の外にある若い娘として描いた、と考えるとわかりやすいか。
またパトレイバー2、および首都決戦に見られる「戦後という現実から目をそらしつ続ける虚構の繁栄」という題材も惜しい作品を構成する要素の一つだと言える。
身体性
さて、そんな押井だが、最近は琉球空手に目覚め、肉体を見つめているらしく舞踏家である姉との対談本「身体のリアル」でも、大いに身体論を語っている。
ある種、確信というか、身体というのは確かにあるんだというさ。自分の肉体という意味じゃなくて、存在としての身体というか。だからあえて身体と言えば身体なんだろうけど。
身体のリアル
映画と身体性。
押井監督は空手を通じ自身の身体と向き合うことで、肉体の中の自我という唯一の「現実と認識しうる虚構」と肉体の外にある「虚構とも思える現実」の肉体論に興味が向いている。
虚構も現実に差異はない同じもの。
「攻殼機動隊」では高度にデジタル化された社会において人と人形の差異が希薄になり、イノセンスにおいても人形がとても重要なファクターとして描かれた。
人間の意識が脳を走る電気信号のノイズが生み出した虚構でしかないとすれば、人形を動かすプログラムの生み出すAIとどれ程の差があるのか。
その後の「スカイクロラ」では、人形のような子供達を使い押井流の死生観を描いてみせた。
人間は、最初からバーチャルな世界に生まれバーチャルな世界だけを認識し、最後までバーチャルの中で死んで行く。
ここへきての夢枕獏「キマイラ孔」は、流れとしてわかりやすい。
かつて長渕剛が免許を取り「ライセンス」を発表し、車を買って「ジープ」を、船にはまって「キャプテン・オブ・ザ・シップ」を発表したくらいわかりやすい。
夢枕獏は、言語によって肉体の軋みを表現しようと試みた作家。
もう一つのライフワークである「餓狼伝」では、強さを追い求める男たちの姿を現実の格闘技プロレス界になぞらえて描き*1、同じく「強さ」という虚構を追い求める男たちを描きながら、その果てに強さのカリカチュアライズとも言える「キマイラ」という人外の獣すら登場させたのが「幻獣少年キマイラ」だろう。
尾骶骨の位置にある獣のチャクラを回すことで身体が獣〜キマイラ〜に変化する宿命を背負った少年大鳳吼と久鬼麗一の物語。
1982年に始まり、未だに続いている夢枕獏のライフワークでもあるシリーズ作品の一つ。
たしか小学生か中学生の時に読んだのが最初だが、まだ終わってないんだから……菊地のDもだが。
己の身体を見つめ、興味を持った押井守が次のテーマとして選ぶのにこれほどふさわしい作品はないかもしれない。
軸足がかっちり落ちた(演舞でない)格闘シーンを期待したい。
あと個人的に、宇奈月典膳の暗器と龍王院弘の脚技がかっこよければ。
それだけは是非。

- 作者: 押井守,最上和子
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/10/04
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
*1:現実の格闘技界の変化が早すぎて、途中で難しくなった時期もあったが