死は鏡

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1つの死によりいくつもの反応があった。
あれこれ思うところはあるが、要は人の死というのは鏡なんだろうと実感した。



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死は鏡

たとえば、はてブ廃止論が書かれたことも一貫だろう。
今回の事件のきっかけになったであろうはてなブックマークは廃止すべきではないか?という記事。

だが、それは筋としておかしい。
他のタイミングならともかく、今回の事件でそれを言うのはとても筋が悪い。

常日頃からはてブなど(はてなに関するサービス一般)を快く思っていないからこそ出た意見だろう。
死という鏡に向きあったとき、自分の内に以前からあった考えが飛び出したように思える。

事件は、ネット上での自由な発言に対するテロとも言われる。
にも関わらず、ここではてブ廃止などすれば、それこそテロに屈したことにしかならない。
改善であればまだしも廃止とは。

はてブがなくなろうがツイッターなどさまざまなSNSがあるのだから加害者にしろはてブがなければそちらに移るだけ。
なくなることにどれほどの抑止力があるか。
それとも諸悪の根源だとでもいうのか。

anond.hatelabo.jp

前も書いたことあるがゴミクズ度の高さでいうとはてな村の連中より酷い奴は他の場所にもいるしw
今も大本命ははてなの外にいるが、その大本命を特定するのには挫折してんだよなー

本命はツイッターだった?などという話も出ているが次はツイッター廃止論でも唱えるかもしれない。
以前、ツイッターで自殺志願の女性らを何人もおびき出し殺害した事件があったが、なぜそのときにはツイッター廃止論を唱えなかったのだろう?

問題があるサービスを廃止すればインターネットはクリーンになっていくのか。
ヤフコメも、ニュースピックスもフェイスブックもやめればいい。
だったらもうネット自体をやめればいいのでは?
人間には早すぎたんだよ。

はてブ廃止を唱える以前に、まずブログをやめる話にならないのも謎ではある。

ネットいじめ=一対多数

ところでネットいじめだとか、ネットリンチだとか、加害者の歪んだ認識がベースなのにもかかわらずそれに乗っかり、死んだ被害者が返答も反論もできないのをいいことに被害者があーだこーだと語り出す人も多い。
死者の尊厳を踏みにじっている自覚はないのか。

それこそ死体を蹴って寄ってたかってリンチしてるんだろう。
死体は反撃してこないので蹴りやすいのかもしれれない。

この辺りも、死は鏡だと感じる。

ただ、そういった自称被害者の意見を見ても「そもそもなぜ自分が炎上したのか」がない。
「日常を過ごしていたら突然襲われました」「被害者が煽ったせいで無辜の自分が一方的にリンチにあったんです」みたいな視点には、それはそれで怖いものを感じる。


つらつらそういった記事を見ていたらコメントに
「内容に関わらず一対多数になったらいじめだ」
などと書いてあってさすがに誰か突っ込むだろと思ってたが、それどころかスターまでついてた。
これが今のトレンドなのか。

もしそれをいうのであればネットの構造から考え直さないとダメなのだが。
その認識はないらしい。

ネットでは、ツイッターにしろブログにしろ、何かしら能動的に発信を行えば(クローズドに設定しない限り)発信が一に対して受動的に生まれる読み手、反応は必ず複数になる。
ツイッターで呟けば、誰か複数のユーザーのタイムラインに現れる。
ブログを書けば誰かが読む。
コメントを書いてもそれを誰かが読み、意見すれば一対多数。
内容いかんにかかわらず一対多数が嫌なら鍵でもかけるか、ROM専になるしかない。

一対多数は、インターネットという場所のフォーマット。
一対一なんて、直接的にやり取りするクローズドな世界にしか存在しない。

誰かの目に誰かと誰かのやり取りが触れる。
その時点で既に一体多数が成立し得る。

バズと炎上

発信を行い、望んだ反応があれば「バズった」と称し、望まなければ「炎上した」「ネットいじめだ」という。

仮に何かが書かれ、それに対して何かを書いたとすればそれはその時点で「一対一」でしかない。
ところがそこにコメントなどがつき、複数の反応になれば「一対多数」になる。
それが是であれ否であれ不特定多数が書き、見ることの可能なネットのやりとりである以上、どちらかが多数になるのは必然のことなのに。
それは現実とは違う。


現実世界でのいじめとネット世界は発信にしろ受信にしろその規模が全く異なる。

学生のネットいじめが深刻なのは、その現実世界とネットのクローズドなコミュニティが完全にリンクしているからであり、実存と虚構は完全に同一。
ネット発のいじめが同一の世界でありながら現実とネットで増幅されることこそが問題だとも言える。


それに比して、ネットでの炎上というのは、そもそもの行為自体に批判されるべき根拠が存在することがほとんどだろう。
いるだけで、存在するだけでいじめられるのとは違う。
誰がROM専のユーザーをあげつらうのか。

たとえば百田尚樹が相変わらずのあーだこーだを述べたとして、それに対し反応することは果たして「ネットいじめ」だろうか?
gqjapan.jp
今日は津田大介が自身の炎上を語った記事に「批判するのはいじめではないか?」なんてコメントもついていた。
だが事件について津田大介がずいぶんマトの外れたことを語っていたが、あれも批判されるべきではなく、もし批判すればいじめだとでもいうのだろうか。

そもそも津田大介のようなメディア人は一対多数で情報を発信するのが仕事なのにもかかわらず。
センシティブな問題を雑に扱う輩の多いこと。


現実のいじめは、被害側の訴えが聞かれることもない。
教師に相談しても見ないふり。
コミュニティの中で排他され、一方的で理不尽な暴力にさらされるからこそひどい。
そんなものはなくなるべきだし、その被害に比べて加害側に対してが緩すぎる。

だが、イケダハヤトなどそもそも発信力のある人間が周囲を煽ることでヘイトを溜め「炎上を恐れない」などとシレッとうそぶいてみせ、周囲に持論を展開して見せるような人物に対しても、ほかと同じように「いじめだ」など同じ尺度をもって適用するのは果たして正しいのだろうか?
発信力もコミュニティも全く違う。
なのに同じ尺度を用いれば破綻し誤謬が出るのも当然のこと。


世間は情報商材を黙認するのが流れなのかもしれないが。
優しい人の多いこと。
皆さまの優しさのお陰で情報商材業界はとても潤っている。


そういえば加害者への呼び方が差別的なのではないか?なんて話があがっていたが、人権を暴力により蹂躙され惨殺した加害者の呼び方にまで気を配るなんて、ここは優しいインターネッツですね。
被害者には全然優しくないが。

ヌルい考え方が主流になっていくのであれば、情報の訂正力は間違いなく減衰するだろう。

デマ訂正

災害が起きるたびデマが横行する。
それに対し求められている訂正力。

ビジネス右翼なまとめサイトの実態も露骨に見え始めたにも関わらず、この段に来て
「発信した内容の如何に関わらず一対多数であればそれはいじめだ」
などというのであれば、そんな歪んだデマも詐欺も情報商材も訂正されることない。

一つの情報に対し複数が批判的になれば、内容にかかわらず「いじめだ」と定義するのであれば。
情報の粒度、確度は問われない。
要は「いじめられる」ことなく拡散されることになる。


いじめがーと唱える方々にとっては、情弱が騙され泣き、万が一コミュニーケーションを行うのであればおためごかしに賛美するか、沈黙して何も語らず誰も信じないことが賢いなどというネットが理想的なのだろう。
いじめもなく、デマは広がり、ほめあうことでしか成立しないディストピア。

もしくは手前勝手な線引き理論でも唱えるのかもしれない。
デマは直していいが、間違った意見をいうアカウントはスルーしろとか。
だが「指摘するといじめ」なのでスルーされ、ゆがんだ情報が届き、誤解を産む。

それは自業自得ってことですね。
いじめを産むより、情弱が勝手に騙される方がいいらしい。


こうして一人の私は、複数のあなたたちに向けてこの記事を書いた。
何の得にもならないのに、嫌われるようなことを書いている。

だがこの記事に対して複数の批判的な反応があれば、それは一対多数の「ネットいじめ」に相当する。
ですから皆さん一切批判せず、ひたすらほめてください。

皆さんも健全で正しいコミュニケーションを目指しましょう。

素晴らしいインターネッツの実現を。
死せる魂に安らぎを。