人は自分が見たいように勝手に補助線を引き、勝手に解釈し、勝手に怒る

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そもそも論を一席。

真っ白なキャンバスに点が一つあったとする。
それが単なる壁紙であれば、観察者は汚れだとでも思うかもしれない。
だがそれが著名な芸術家の作品であれば、観察者はそこに意味を見出そうとする。

例えば孤独や抑圧、あるいはマイノリティや周囲への怒りかもしれない。
もしくは完全に純粋なものなどあり得ない、という主張を見てるかもしれない。

表現とは、いったい何か。

芸術

「白いキャンバス」「黒い点」

この二つにでさえ、人はそこに意味を見出すことができる。
抑圧を見る人は白いキャンバスに黒い点に向かう無数の力の流れを見ているのかもしれない。
怒りを見る人は黒い点の中に凝縮された力を見ているのかもしれない。

漫画であれ芸術であれ、表現というものは無に補助線を引くことでそこに表現者の内部にあるものを再現しようとする手段であると言える。
漫画と芸術との大きな差異は、補助線の数でしかなく、漫画は補助線が多いからこそ解釈の余地が少なく、芸術は補助線が少ないからこそ観察者に解釈の余地が多い。

解釈の余地が多いということは同時に、作品に補助線がなくてもそこに意味や意図を読み取る技術や経験、知識、思考が必要だということでもある。
表現としての優劣はそこにない。
要は表現として他者へ正確に伝えるための補助線の多寡(わかりやすさ、親切さ)だけがそこに差として存在する。



作品は補助線によって発生するものであり、解釈というものは作品の外にしかない。
作者が何を意図しようが、作品を通じ観察者へ伝わる解釈が作者と同じとは限らない。
作品の解釈は読者、鑑賞者の数だけ存在し得る。
そして作品の解釈は、社会的、個人的に何重にも付与されうる。
だからそこに正解はない。


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レニ・リーフェンシュタールは、1936年ナチス政権下でのオリンピックを撮影。
オリンピア」という名の作品として上梓された。

それまでのオリンピック公式記録映画とは異なり、『オリンピア』の芸術的完成度は極めて高かった。さまざまな焦点距離のレンズを駆使し、効果音の使用、撮り直しなどにより、競技を美的に描き、観る者を圧倒した。一方で、ヒトラーを精悍な指導者としてクローズアップし、集団体操(マスゲーム)の様式美・構成美を強調するとともに、観衆がヒトラーに対して一斉にナチス式敬礼をするシーンをダイナミックに描いた。
そのため、監督のレニ・リーフェンシュタールは、芸術的で美しい記録映画であるという称賛と、ナチスプロパガンダ映画であるという批判の両方を一身に集めたのである。このことについては、「ナチスに加担したことは許せないが、記録映画としてはたいへん美しいことを評価すべきである」とする声が多い。もっとも批判の方は、『オリンピア』以前にオリンピックとは関係のないナチスプロパガンダ映画をリーフェンシュタールが制作していたことにも向けられていた。
レニ・リーフェンシュタール 「美」だけを見ていたナルシシスト - オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと - スポーツ 歴史の検証 - 特集 - 笹川スポーツ財団

映画とは、記録した映像に編集技術で意味性や物語を与えた作品。
記録された映像は、事実以外ない。
スポーツとは純粋で美しいものという映像作品として「オリンピア」はとても芸術的で素晴らしい作品なのかもしれない。

しかしそこに政治的な補助線を引けば「ナチスプロパガンダ」でもある「オリンピア」という映像自体の解釈にも影響し、価値は認められないだろう。
そして一見、美しい「オリンピア」も撮影のためにフィクションが盛り込まれている点を指して、ノンフィクションのみにこだわるという補助線を引いて「純粋なドキュメンタリーとしての及第点にない」という解釈もあるかもしれない。

オリンピア」という作品の映像自体はフィクションはあるものの、スポーツの記録映像。
本来、そこに意味性はない。
仮に歴史が完全に分断され、ナチスすら忘れられた遠い未来に「オリンピア」を見る観察者は、過去の記録という補助線だけを引き、そこにナチスや虐殺や戦争の記録を重ねては見ないだろう。

だが現代、1936年の、ナチス政権下であるという時代性の補助線が引かれることで、作品の外にある「ナチス」という属性が映像作品に付与され、さらにナチスから敷衍し「ユダヤ人の虐殺を行なったユダヤ党のプロパガンダ」という補助線がさらにい引かれ、作品の解釈は大きく変化する。

誰も傷つけない漫画


このツイートを作品単体としてみれば一般論に対する風刺とも受け取れる。

例えば記事冒頭のtogetterでまとめられ作品に対して怒りを向けている幾つかのアカウントは、オタクが嫌いなフェミニスト(自称)がほとんど。

当該アカウントらは、オタク(表現の自由戦士)と表現において対立するフェミニストの補助線が引かれて見えているからこそ、あの漫画をフェミニストに対する皮肉として解釈している。


先日、藤本タツキ「ルックバック」が一部のクレーマーによる声によって改変されたという前提を補助線とすれば、このツイートへの解釈は大きく異なる。

さらに言えば改変された「ルックバック」に対する改変の是非によって自身の引く補助線の方向もまた変わる。
補助線の方向によっては、自分が攻撃され散るようにも感じ激昂し、あるいは逆に快哉を叫ぶかもしれない。

人は、描かれていなくても自分が見たいものを見たいように勝手に見る。
そこに勝手にフィルターを重ね勝手に解釈し、そしてそれこそが「正しい解釈だ」と叫んでみせる。

Don't Look Back In Anger

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元々、振られ男の歌でしかなかったOASISの「Don't Look Back In Anger」にイギリスの市井の人々は爆破テロの記憶を重ね、アンセムとして歌った。
OASISのライヴ定番、シングアソングの代表みたいなこの曲に人々が「テロ事件」という補助線を引いたからこそ起きた新たな解釈だった。

そこへ藤本タツキの「ルックバック」という作品が描かれ、読者はそこに京アニの事件を補助線を引き、タイトルからOASISの曲がテロの時に歌われたというエピソードも補助線として引き「創作すること」という行為を描いた作品を取り囲む物語の解釈は、さらに深く、重層化した。


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しかしそこへクレームがついた。
作品の描いた記号、補助線へのクレームだったがそれによって作品は改変・修正された*1

「改変・修正されたことは大きくない」「よくあること」という意見もあったが、残念ながらその改変部分は実際にあった京アニに対するテロ事件への鎮魂という補助線を消してしまう部分であり、それによって「ルックバック」は何とも繋がらない物語と姿を変えた。

「改変されたことは大きくない」のではなく「改変されてしまった」という補助線が引かれてしまったことが重要で、それは作品の解釈を浅くし、「今や誰かを傷つける表現があればそれは改変されても仕方がない」という前例になったということでもある。
これは今後、あらゆる作品への補助線として用いられ、誰かが「傷ついた」と叫べばその解釈は「是」とされなければならないということでもある。
誰一人、何一人傷つけてはならない。
今、誰も傷つけないためには「表現者にならない」という選択肢以外あり得ない。
仮に表現者になれば「表現しない」ことすら表現になってしまう。

もちろん表現の欲求があるにも関わらず表現しないことを選択すれば自身を傷つけるかもしれない。
もしそれも是とするなら、もはや傷つけないためには、傷つけるものも傷つけられるものも全て存在しないことしかないのかも知れない。

そして「誰かを傷つけるかも知れない表現」について書いたこの記事も読み手は勝手に補助線を引き勝手に解釈し勝手に傷つく。

だから書き手は読み手が傷ついたどうかを考えず
「俺はこれが言いたい。お前らが勝手に傷つこうが傷つくまいが知るか」
と言うしかない。

もしそれが時代に受け入れられないなら、それは消えればいい。
パラダイムが代わり、新たな価値観になった時、その作品は受け入れられたかも知れないのに。
改変され延命された表現に、果たしてその時代に存在する意味があるのんだろうか。

*1:斎藤環の記事には大きな瑕疵があるのだがここではさておき