本物のバンクシーの作品に価値があるならバンクシーの作品に価値はない

whoisbanksy.jp

先週末、低気圧の影響で頭痛に苦しみながら、流しっぱなしのテレビ画面に意識を向けると、バンクシー展(オリジナル&フェイク)を天王洲でやるらしく、中村倫也バンクシーの謎に迫る、と言った体の特番が放送されていた。
壁に描かれたバンクシーの絵を全てオリジナルで持ってくるなんて予算的に厳しいし(そもそも全て所蔵してる人なんていないだろうし)額縁数点と壁に描かれたものの複製がそれなりにあるって感じだろう。

昔、オアシスが人気になった頃、オアシスの本物が来れない地域にオアシスのコピーバンドがやってきてオアシスの曲を演奏してそれでも盛り上がるなんて逸話、あるいはフジロックでドタキャンしたモリッシーの代わりにモリッシーのそっくりさん(ジーズ・チャーミング・メン)がやってきたことを思い出したり。
そんな諸々に近いのかもしれない。

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それはともかく韓国で、バンクシーのコピーが展示されてることでクレームが入るなんてことがあったらしい。
さすがにそれはバカバカしすぎるだろう。
絵画芸術の場合、唯一無二、作家自身の描いた作品には、例えば油絵であったら、それこそ絵の具の連なりや、細やかなディテールにも意味が存在するし、評価を受けるに足るオリジナルの芸術作品を見ると言うことには意味があるだろう。

だが壁や扉などに描くストリートアート中心のバンクシーの場合、全部本物なんてわけはまずない。
コピーが大半、あとオリジナルが幾つか(バンクシーには多少額縁の作品もあるので)だろうと見る前から見当がつきそうなものだが(ちなみにオークションにかける場合、壁ごと切り離すのだが)、そもそも壁に書いたステンシル画に対してオリジナルだとかコピーだとか。
そういう捉え方自体がバンクシーと言う存在を理解してないとしか言いようがない。

ポップアート

例えばアンディウォーホルのようなシルクスクリーンの時代からアートが大量生産(シルクスクリーンをつくう事で同じものを大量に作れる)されることによるアートの持つ価値への懐疑というメタな考えは存在していた。
ポップアートの持つ、大量消費社会への風刺、既存美術の持ち得る価値観へのアンチテーゼ。
現代アートのやりがちな事でもある。

有名どころでいえばデュシャンの「泉」だろうか。
便器を買ってきてそこに芸術家がサインを入れる。そして「泉」と言うタイトルをつける事でただの便器に価値が生まれてしまう。

最近で言うならマウリツィオ・カテランの「コメディアン」
バナナをダクトテープで壁に貼り付けて見せてそれをアート作品と称した。

バンクシーと同じストリートアートであれば、バスキアもそうだろう。
壁に描いた落書きが美術品として価値を持つ。
キャンバスがなんであれ、書かれた絵に価値が生まれればただの壁も高価な壁になる。
だがその資本主義社会において、貨幣と交換可能な「美術品の価値」とは果たして何か?

そういうアイロニーな視点で、美術品の持つ批評性や経済的な価値というものに対してのアンチテーゼとしてポップアートは懐疑的な視点を持ち機能しえた。

価値とは何か?

2006年、バンクシーはレコードショップに陳列されたパリス・ヒルトンのアルバムをデンジャーマウスがリミックス、細工したアルバムとすり替えた。
大量に売られるCDアルバムがバンクシーの手を経由し、リミックスされる事で通常のアルバム以上の価値を持つ。
だが、それらは美術商ではなく通常のレコードショップで売られ、そこにアートの持つ「付加価値」が乗らない。

公園の露天商でバンクシーのステンシル画を販売。
通りすがりの人からすれば露天商の売る絵画はバッタモノ。美術商に並べば数千万付くような絵が露天商では二束三文で売られる。
同じ絵なのにも関わらず、売り手によって価格が変わり、価値も変わる。

バンクシーの絵を勝手に数千万だの数億だのとつけて取引するのは美術商とコレクター。
そしてやり取りされる金額は、絵そのものの価値とイコールではない。

最近では、バンクシー自体が商標権を得ようと動いたり、自身がそんな価値に踊らされたりしていてなんだかなぁと言う感じもするのだが(自分の絵を勝手に使って商売する連中への牽制だろうが、これまで他人の著作権や商標権を軽んじてきて自分が意趣返しされては今さらとしか思えない)。

陳腐化

本物と違わぬコピーが作られるデジタルな現代において現代アートが批判的に扱ってきたオリジナル/コピーの持つ価値の意味というものはもう少し省みなければならない意味。
ポップアートは「アートと資本主義の中で持つ価値」を批判的に、メタな視点を持ち扱ってきた。
ただ残念ながら集団の合意によって得られた高価な価値という共同幻想は、資本主義社会に生きる上での呪いのようなもの。
飲み込まれるのはウォーホル然り、バスキア然り。
バンクシーもまた大きくなりすぎ、残念ながら自分が権威になってしまった。
価値観への反逆や疑問は反権威だからこそ意味があるのに今のバンクシーではそれも叶わない。

小池百合子がどっかの落書きをバンクシー謹製とありがたがって展示してる時点ですっかりバンクシーは陳腐化してしまったし、今回のように韓国で壁に描いたステンシル画にすら「本物かコピーか」などという無意味な価値を求められてしまう。
かつて書かれた油絵のような一点ものの持つ、一点ものだからこそ持つ価値とは違う。
ウォーホルのシルクスクリーンにしろ、バンクシーのステンシルにしろ、型紙を使えば同じ絵が描けてしまう作品はコピーであっても作品に大差がない。

全く同じ絵があったとして、それが本人によるものかそうでないかによって価値が変わるのだとすればそれは絵自体の価値ではなく絵に付随する「本人が書いた」事実、事象が価値を持つと言える。
しかし絵自体ではなく、絵に付随する事象や事実が価値を持つのだとしたら、そのオリジナルの絵を鑑賞しなければ価値がないと果たして言えるのか。

書かれた絵そのもののクオリティではなく、そこに書かれた、いつ、どのように書かれたかに意味があるバンクシーのステンシルにも関わらず真贋という旧来的な付加価値が求められてしまうというのはバンクシー自身も想定しないバカバカしくスラップスティックコメディのようなアイロニー




デジタルとオリジナルと

最近、NFTを使った新たなBAYTなどが取引され始めている。
非代替性トークンを使うことで、複製可能だったはずのデジタルでありながら唯一無二という価値を得ることができる新たなアートと新たな価値。
デジタルであれ価値があると認められればそれが売買され、市場を産み、市場がさらにデジタルデータの価値を上げる。

バンクシーはステンシルによって美術におけるオリジナルとコピーの価値に対して疑問を呈し、しくじり、そしてブロックチェーンを使い新たな唯一無二、オリジナルであることに価値があるというアートが普及しつつある。
デジタルデータ如きに価値があるか否かという問いには、FGOにおいてただのキャラのデータに何万も何十万も溶かしている死屍累々の諸氏を指すだけで何も付け足すことはない。
ウマ娘のガチャを天井までぶん回す方々の方がその辺りについてはよく知っていることだろう。

バンクシーとは

バンクシーとは何か?と問われれば、個人的には典型的なポップアートの継承者であり、パリス・ヒルトンのCDに悪戯したり、映画を作ったり、そのゲリラ的な活動や存在がアングラであるうちは新しくもあったが、大きく騒がれ、作品の価値が上がり続け、落書きか否かと論争になり、現代アートにおいてすっかり権威となるものの、覆面であるが故に著作権や商標権を主張できず、その劣化コピー作品が大量に量産され、商品化され、消費されてしまった。
資本主義により敗北した芸術家に見えるのば自分だけだろうか。

もはやバンクシーのあのステンシルの偽物はそこら中に溢れ、どこかのネズミのキャラと大差ない。
バンクシーを盗んだ男」を見ればその狂騒のバカバカしさに呆れるしかない。
※プライム対象なので見れる人はどうぞ

バカバカしい韓国でのバンクシー展の偽物・本物騒ぎなんてまさにリーチしてはいけないところにまでリーチしてる現状がよく現れてる。
そんなにバンクシーの本物が見たいならイギリスへ行けばいいのに。
見たところでコピーと変わりはしないですがね。

そんなにオリジナルの作品を見たいならその手の本でも読めば足りる。
よほど芸術に詳しいお歴々が説明もしてくれてる。

ステンシル画のバンクシーの絵を見て心動かされることなんてない。
そういうジャンルの作品じゃあない。
バンクシーが書いたその場所、動機や行為があって初めてその絵に意味や価値がある。
鑑賞は実物でなく図版でも特に問題はない。
バンクシーの作品が本物なのか偽物なのか、そういうことではなく、場所や意味から切り離された時点でもう作品に価値はない。
価値がなくても高値で売るのが美術商であるし、だからオークションで裁断しようともしたのに(あそこでしくじるのも非常にイタい)。

誰がバンクシーかは知らない。
誰がバンクシーでもいい。
誰であるにせよ、その正体が明らかになった途端、バンクシーというキャラクターの価値は地に落ちる。
バンクシーの正体もまた謎だからこそ価値がある。