コンテンツを速度変更して再生しても理解できるようにする必要はない

topisyu.hatenablog.com

ラジオの中では、「映画の中で、ただ空を写しているシーンに見えて、実は登場人物の心の変化を示しているけれど、それが最近の消費者には何も内容がないと思われてスキップされてしまう」という例が紹介されていたんですね。これって、等倍速でスキップしないで再生したら、そういう登場人物の心の変化を理解できるという発想があるわけで。これが、私は残念だと思いまして。

だって、世の中には等倍速では内容を理解できない人はいるじゃないですか。

うーん、これは違うかな。

倍速と言うのは自制に沿った等速の情報処理が無駄(非効率)だと言うことですかね。
でもコンテンツって決して効率性を求める対象ではないですよ。

理解

合理的配慮が語られているんだけれども、映画やドラマのいわゆる「間」に関して理解できないと言うのは理解できるんですけど、それを理解できない人がいるのは前提なんですよね。
だって義務教育じゃないんですから。
もちろんコンテンツはわかりやすい方がいい。
でもコンテンツをわかりやすくするために説明セリフだらけになったらそれはおかしい。

例えば勝新太郎が撮った「警視K」ってのがありましたが、

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勝新が変にリアリズムにこだわったせいかセリフもまともに聞き取れないボソボソっぷりで、この辺は黒澤明の「羅生門」なんかにも繋がる話かもしれない。

羅生門の台詞はとても聞きづらく、日本で上映された時は不評で、海外で字幕付きで上映され評価された(もちろん諸説あるが)って有名な逸話ですが、あれにしろ「台詞は観客に聞き取れなければならない(ユーザーフレンドリー)」な考えより作家性の方が上にあったからこその出来事だと思うんですよ。

吹き替え

倍速と絡めて以前から思っているのが、いわゆる吹き替えで観ることで。
吹き替えの台詞というのは、台詞の話者が異なるわけで同じ映画を流用した二次作品的な存在。
アニメはいいんですよ。
最初から声優さんの声を当てることが前提で作られているので。

でも海外の監督は日本語に変換することを考えて撮影しているわけじゃあない。
映画監督はセリフの一つ一つの発声や意味にこだわって作り上げてる。
ところが吹き替えってのはそんな映画のレイヤーをバラして、音声を差し替える作業なけわけで。
だから同じ作品を観ていても、通すレイヤーが一層丸々違う。
それって厳密には似て非なるものじゃないです?

映画を倍速で観るって話も入れ込むと
「吹き替えでさらに倍速で」
と言葉と時制、二つのレイヤーを総とっかえにするのはとても合理的鑑賞法ですけど、それって同じ作品を本当に観ていますか?と疑問が浮かぶのはおかしなことじゃないと思うんですよね。

同じ作品を観ているといえるのか、と。
レイヤーが一つでも違えば本来違う作品なんですよ、それは。


もちろん吹き替えがダメってわけじゃないですよ。

自分の場合だと海外ドラマは吹き替えで観ることが多い。
露口茂さんのホームズや熊倉一雄さんのポワロを楽しみたい。
スタートレックのB級感も吹き替えの方が伝わる。
スターウォーズは吹き替えでは観ないんですけどね、その辺は好みで。


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昔やってた海外ドラマは吹き替えじゃないとしっくりこない。
プリズナーNo.6」とか吹き替えも字幕もどちらも観ましたけど、印象が違いますよね。
なので自分は「プリズナーNo.6」は吹き替え版が好きで、字幕版はイマイチだと思ってますし別だと思ってる。
オリジナル言語を字幕なしで楽しむのが本来なので、そういう意味で作品のレイヤーが違ってる自覚はありますけどね。

ただドラマでも演じている役者さんの演技を生声が聞きたくて(本人の演技をそのまま観たい)場合は吹き替えじゃなく字幕にしたりもしますね。
今はその辺の切り替えが便利なので。

倍速で観たりもしますよ。
ストーリーをただ追えれば良い、間まで(非言語的演出)考えられて演出されてない、そう言ったものならサクッと観たいので倍速で観る。
その辺はお好きにどうぞというか。
テレビドラマの多くは作家性が低い、とも言える。

同じコンテンツでも一つのコンテンツあたりの密度に関して映画の方が制限された時間な分、間や画角まで計算しているのに対して、ドラマはストーリーを描くことが主眼なので非言語演出が軽視されていることも多い。
日本ドラマなんてバストショットの作品ばかりでそりゃあ若い娘さんはキャーキャー胸キュンしたいんでしょうが、オジサンは演出の酷さに倍速どころかそっ閉じ(テレビを)しちゃう。

でも倍速で観てて「あれ?これは倍速でダメなやつじゃね??」と思ったら等倍に戻したりする。
それを思えるかどうか、というのも人それぞれなわけですが。

行間

「作ったものは等倍速で見てほしい」とコンテンツ提供者が考えるのは理解できるものの、「等倍速だからこそ理解してもらえるはず」というスタンスは、等倍速で理解できない人たちの存在が考慮されていないで残念だな……なんてことを2.5倍速で聴きながら、考えていました。

こういうユーザーフレンドリーってアートや作家性と相性が最悪なんですよ。
「等倍速だからこそ理解してもらえるはず」じゃなく、作家が考えるのは「等倍速でないと意味が失われる」なのでそれを理解するもしないも受け手側次第なんですよ。

ユーザーは「理解しやすくしてほしい」、
でも作家は「お前らが独りで理解しろ」と思ってる。
多かれ少なかれ難易度の違う現代芸術みたいなものです。

「行間を読め」とかよく言いますが、非言語的演出というのはカメラの画角や音楽、言葉にできな、言葉にならないことで表現することが多い。
言葉にすれば無粋ってことなんすけどね。
よく炎上してる町山氏が生業にしてるのがその「無粋」なやつですね。


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例えば映画「リンダリンダリンダ」は台詞ではなく、登場人物の心理的距離を映像や非言語で表現する演出が非常に多いんですよ。
これが観る人によっては「退屈」と映ってしまう。
退屈なのは描かれている非言語な演出(暗喩)を読み取れないからで、でも映画理論は全人類の必修科目ではないし、読み取れるか取れないかは観客次第なわけですよね。

映画「イットフォローズ」はひたすらわからないものに追いかけられる映画ですが、アレも暗喩だらけ。
ニコラス・ウィンディング・レフン作品なんて暗喩だらけですからね。

「オンリーゴッド」なんて読むのが疲れるくらい。
ユーザーに親切に、消費しやすくできてない。
だからレフン作品は非常に人を選ぶ。
リンチなんかもそうですよね。
ツインピークスがヒットしなきゃあカルト作家で終わったのに。

根本的には、人それぞれで情報処理能力が違うから、再生速度を早くだけじゃなく、遅くできたほうがいい。視力が弱い、聴力が弱い人向けのコンテンツを作るのと発想としては近い。

もし理解できなければもう一度観れば良く無いです?
どうして遅くして一度で済ませないといけないんでしょう?
無駄なら観なければ良いんだし、観る必要がある、観たいなら何度でも観ればいい。

HUNTER×HUNTER モノクロ版 24 (ジャンプコミックスDIGITAL)
そもそも絵が必要なのか?ってのもあるんですよ。

あえて絵を排除することで意味を持たせたのがHUNTER×HUNTERの有名なメルエムとコムギのシーンで。
絵を排除して台詞だけにすることでそこに意味を持たせた。
あぁいう情報のコントロールはまさに作者の作家性だからこそで、わかりやすさを重要視するのであれば間違いなく二人が衰弱する描写を描くべきだったでしょうね。
でもそうすると今ほどの名シーンにはならなかったかもしれませんが。

時制の話だと、エヴァでの綾波とシンジがエスカレーターに無言で乗ってるとことか。
シンジの乗るエヴァ渚カヲルを握り締めた止め絵のシーン(最後のシ者)とかね。
もちろん予算の事情とかあったわけですが、あれを倍速で観たら意味が全然変わってしまう。

エレベーターに乗っている人を描く際、無言で乗り合わせた人の距離だけで関係性を演出する。
沈黙が長ければ長いほど重苦しく感じるし、観ている人にその緊張感が伝わる。
倍速だったら半分で終わりますからね。

等倍なら伝わるはずの非言語情報が半分しか伝わらず、倍速で観るから演出意図を頭で理解してしまう。
非言語演出の多くは頭より感情で汲み取ってほしいものなので、頭で考えた途端に陳腐化する。

作り手は「(心で)感じて欲しい」のであって「(頭で)わかってほしい」んじゃないんですけどね。

お笑い

実はお笑いというジャンルもそういうものでして。
漫才なんて速度を変えたらグチャグチャになりますからね。


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ロングコートダディのネタなんてまさに無言の間が大事で。
非言語、間というのは情報の欠落だからnullなんだけど、そこにnullがあるのは意味があることなんですよ。

お笑いというのは特にリアルタイム性が求められるもので、コンテクストや間などが重要になる。
実は難易度の高い演芸なんだけどテレビでメジャーになってしまい大衆に広まった。

理解難易度の高いスタンドアップコメディに解説役としてツッコミという役職を付け加えることで平易化した漫才。
ボケ(非常識)←ツッコミ(常識)
ボケの不条理をツッコミの条理が通訳し観客に伝えることで笑いになる。
それを観ながらリアルタイムで音声と映像、意味を同時に情報処理しおかしみを考えるんですから笑いというのは脳をかなり使わないと理解がとても難しい。
倍速で観たらその面白さが等倍とどれだけ違うか、ってのはわかると思うんですがね。

でもお笑いが理解できないからって何も損しませんよ。
知り合いに漫才やコントが全然わからない(笑わない)人がいますが、普通に生きてますからね。


音楽で言うなら音一音は単音でしかなくって、音が連なることでメロディができる。
そこに休符が置かれるのは音を鳴らさないんじゃなくて無音を鳴らしてるし、楽曲全体にとって意味がある無音なんですよ。
無音である、情報がないと言うのは無駄ではないし、だからこそその無音も含めてこその楽曲だと思うんですがね。

無駄

今はやたら情報の処理速度ばかりがもてはやされるから「大量の情報があるから大量に消費なければならない」と情報効率化に囚われてる感じがしてならない。
情報の効率化じゃなく、取り込めるだけの情報を取捨選択して、その情報を等倍で処理するのではどうしてダメなんですかね。

少なくともそれを求めているのは自分だけのはずで。
それを誰かに求められていないのであれば生き急ぐ必要がどこにあるのか。

よく無駄は削ぎ落とそう、みたいな話になりますが、人生なんて無駄そのもの。
死んで数年も経てば大概の人は忘れ去られ数十年生きたその痕跡もなくなる。
どんなに努力しても100年、1000年これから先覚えていてもらえる人が果たしてどれだけいるのか。
というか覚えていてもらったらそれが何なのか、と。
残念ながら人は死にますからね。

無駄な人生だからこそ無駄を楽しむ余裕があってほしい。
効率ばかり求めるのはなんか窮屈というか疲れる。
だから無駄に映画を観て、無駄に音楽を聴き、無駄に芸術を鑑賞して、無駄にお笑いを観て笑う。

ここ数ヶ月、エルデンリングのプレイ動画をトータル何十時間観たのか覚えていないくらい。
自分でもプレイしてますからエルデンリングという一つのゲームに人生の何十分の一は突っ込んだわけで。
マレニアだけで何時間使ったんだか...。

どれも人生に必要ない。
なくても社会も人生も生きていける。
全部、無駄なことですよ。
メメントモリ、どうせ死ぬんですから。

効率的に、わかりやすく、丁寧に。
それは教育やマニュアル、生きるために必要な情報の摂取方であって、余裕では無い。
倍速で無駄なものを消化しなければならない、親切に観る人にわかりやすくならねばならない理由。

わからないものはわからないままでいいし、わかる必要のないものはわからなくていい。
みんないろんなことを解りたい欲が強すぎるからデマにも引っかかる。
わからないってのは別に恥ずかしいことじゃないはずなんですけどね。

等倍速でないと伝わらないってのは、まぁ、とっ散らかってますがひとまずこんな感じで多岐にわたる。
絞って整理してまとめたものを書いてみてもいいかもしれないですが、またそれはいずれ。